午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

生の源泉

最近、ずっと「考える」ということをしていた。ひとつづつ立ち止まって、「自分はどう生きるのか」とか、「友達とはなにか」とか、そうした基本的なことを考えていた。そう、大事なことは、いつも基本的なことである。

 

同時に、何冊かの本も読んだ。池田晶子の『14歳からの哲学』、漫画版の『君たちはどう生きるか』、などなど。幸い、(暑すぎる)夏休みで、時間はけっこうあった。だから、なにかを隠し続ける自分自身と、少しずつでも向き合おうとした。果たして、今このブログを書いている自分は、いったい何者なのか、と。

 

武井壮Youtubeなどで見たが、いわゆる「運動ができない人」は、自分の身体の使い方が、うまくイメージできていないことが原因らしい。「両腕を水平に伸ばす」ことを実践したとき、頭の中では水平に伸ばしていても、実際には水平になっておらず、ずれてしまっている。そうしたズレが、スポーツができない原因だそうだ。

 

わたしが今生活で苦しんでいるのは、この「ズレ」ではないか、と思った。「自分が思っている自分」と、実際の自分がずいぶんと異なっている。本当は背が高いのに、背が低いと思い込んでいれば、低い天井があったときに、かがむことをせず、思い切りぶつかってしまう。そんなことを繰り返しているのではないか、と思った。そして、正確な自分をイメージするには、自分自身が人々の間で動かなければならない、と思った。ただ頭で空想していても、本当の自分はわからない。

 

そんなことを思っていたのと前後して、『君たちはどう生きるか』を読んだ。「コペル君」の気づき、「自分は世界の中心ではなく、中心の周りを自分たちがまわっている。そして、中心には誰もいない」という気づきの描写は、目から鱗だった。小説よりも、丁寧に描かれた漫画だからこそ、腑に落ちたのだと思う。今まで「自分は脱中心化できていない」と頭ではわかっていたが、腹では相変わらず自分中心に世界がまわっていた。しかし、その描写を読んだ瞬間に、わたしの世界はコペル君と同じく、コペルニクス的転回をした。漢方をもらっていた医院で読み終わって、帰り道、踏切をわたるとき、何百回もとおっているその通りの景色が、まったく別の景色にみえた。それは、可でもなく、不可でもない、何の意味もない、それでいて、確かに存在している世界だ。それが、とても不思議な気持ちがして、そして解放された気がした。自分自身の心の檻から自由になった。それがとても嬉しかった。

 

この転回が起こったのは、突然ではなく、2年以上カウンセリングを受けて、心理士の先生とともに、ひたすら自分に向き合ったからだ。その上で、その瞬間にそれに出会い(偶然飲み会前に時間潰しで行った丸善で手に取った)、その転回が起こった。

 

自分が囚われていた世界とは、自分が搾取される世界だった。そのことに気がついたのは、自分自身の生まれてから現在までの年表を作ってみたことだ。Excelで、西暦、年齢、出来事、その時感じたこと、今現在感じていること、の5列を作り、1年ごとに振り返って書いてみた。その作業をとおしてわかったことは、自分はずっと大人たちに振り回されて、誰も助けてくれずにずっと寂しさや悲しさ、怒りを我慢してきたことだ。しかし、今は子どものときとは違う。子どものときの自分の感情に、年表を通して「出会った」ことで、子どもの自分は手当てされた。

 

そうしたことで、自分と向き合うことができた。自分は「奪われた」から、今度は「奪おう」として、他人からたくさんの「善意」を無意識に奪ってきた。そして、それにほくそ笑み、今度はその人がなにかを奪われた、として彷徨うようになることを喜んでいた。だが、そんなことをしても、虚しさは募るばかりだった。

 

しかし、コペルニクス的転回をした今、他人と自分との大きさが同じになった今、そんな奪ったり奪われたりのやりとりは、意味のないもののように思えた。他人から奪ったものは、もとの場所に返さなければならない。そして、奪われたものの「価値」は、大したものではないこともわかった。

 

それについて説明するさいに、ものの「使用価値」と「交換価値」を分けて考えることが重要な鍵だ。「水とダイヤモンドのパラドックス」だ。水は、必要不可欠なものだが、値段は安い。ダイヤモンドはあまり使い道がないが、値段は高い。使用価値としては水の方が高いにもかかわらず、人々がありがたがるのはダイヤモンドの方だ。現代人は、交換価値を使用価値だと錯覚している。

 

わたしは、無意識に容姿や学歴、仕事などに固執していた。他人から褒められるからだ。しかし、それらに固執すればするほど不安は募り、もっとすごい人を見ては不安が募るばかりだった。しかし、前述の「使用価値」と「交換価値」の違いを思い出して(それは研究のためにアンリ・ルフェーブルの『都市への権利』を読んでいたときだ)、自分の本来の「価値」、すなわち「使用価値」とはなにか、に気がついた。わたしの「使用価値」、それはきっと、優しさだ。そして、優しさは泉のように湧き上がり、多少もっていかれたところで、どうってことない。それがわたしの本来の価値であって、わたしの価値は容姿や学歴、仕事ではない。大海の水を桶に汲んで盗んだところで、海はすこしもなくならない。恋人がそばにいるのは、きっとわたしの本来の価値ゆえにだろう。

 

優しさは、わたしが交換可能ではないのと同じ意味で、交換可能なものではない。そう思って、自分も少しはましな人間なのではないかと思うに至ったのである。