午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

2022

2022年が終わろうとしている。とはいえ、やることは少しも減っておらず、多少余裕のある今だからこそやらなければならない数多くのことに向き合っている最中である。

 

今年は、ひたすら自分の見たくない部分と向き合った一年だった。現実の、等身大の自分から目を背けて十年以上過ごしてきた。向き合えなかったのは、傷に向き合うことが怖かったからである。傷ついた小さな自分は、注目してもらうために暴れていた。そして、自分を傷つけた過去の人間を身近な親しい人に投影して、ひたすら「甘え」ていた。カウンセラーの先生に指摘されたとおり、それは「仕返し」の様相を帯びていた。

 

少なくともこの十年のあいだ、自分は自分のことを「弱者」と位置付け、非常に受動的で依存的な生き方をしてきた。「弱者」であると大声で喚き、ケアを要求した。それが今では、能動的、ボランタリー(自発的、自由意志)な精神に生まれ変わろうとしている。誰かのせいにする、ルサンチマン的な生き方から、誰のせいにもしないまま、理不尽を理不尽としてただ受け止めながら、少しずつ前に進もうとする生き方へ。コペルニクス的転回である。キーワードは、「規律」であり、「努力」であり、全体を貫く一本の筋としての「父性(パタニティ)」である。

 

わたしは、「甘え」の表出として、フリーライドをしていた。最近で言えば、後輩の女の子に仕事をやってもらっていて(もう3年ほど)、心のどこかでそれを当然だと思ってしまっていた。彼女の利他性に感謝するふりをしつつ、甘えていたのである。(さすがに最近ではそこまで思ってはいなかったが)学生時代、試験前に他人のノートをコピーして、しかも感謝するどころか利用される方は馬鹿だくらいに思っていた。しかし、労力を払わずタダ乗りするだけのフリーライドは、ツケ払いである。モラトリアム(=もとの意味は支払い猶予である)の期限が迫ったとき、ツケは払わされる。後輩はわたしに怒った。それを通して、わたしは自分が甘えていたという事実を突きつけられ、直面化した。そんなふうになっても関係が切れないのは感謝するしかないし、その姿勢は改める必要がある。

 

自分に足りなかったのは、エフォート(労力を割くこと)であり、コミットメントであった。もう、逃げることはしない。来年は、そんな一年にしたいと思う。