午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

主客転倒

オーストラリアで開かれている国際学会に参加している。しかし、やる気はまったくせず、ちっとも楽しくない。わたしの研究が、いや、わたしの人生が行き詰まっていると感じるからだ。

 

代わりにというか、ホテルのベッドに寝転んで、(意図せず)自分の生き方を少しだけ見つめ直している。大阪にいたころは、自分のことを見つめ直す余裕などまったくなかった。日常の重力から解放された今、少しだけ心の緊張が解け、脅迫的なフォーカスが緩んでいっている。

 

日本では、年齢が過ぎたり無職の期間があったり、ちょっとしたことで「もうおしまいだ」となりがちだが、オーストラリアにいればそんなことはない。それがわかっただけでも発見だ。

 

以前どこかで読んだミュージシャンのインタビュー記事で、師匠から「音楽のために生きるのではなく、生きるために音楽をやれ」と言われてはっとしたという記事があった。わたしは、研究の世界に入ったときには生活の手段にすぎなかったはずが、いつのまにか唯一無二の目標としてしまっていた。そして、失敗したらもう人間としての価値はない、というレベルまで追い詰められていた。ほんの数年前は研究などまったくかかわっていなかったのに、いつのまにか研究の「競争」に巻き込まれ、アイデンティティのレベルからそのようになってしまっていたようだ。外見的な見栄えの良さに常に囚われ、内面を充実させることをおろそかにしてきた。もとをたどれば、小中学生のころからそうだったのかもしれない。実績の鎧を着ないと、自信がなくて立っていられない。そして、初職の会社の失敗により経歴がはやくも傷つくと、わたしは立っていられなくなった。内面を充実させるということを、完全に忘れ去ってしまっていた。

 

わたしは、29年間、努力して報われなかったことがただの一度もなかった。ベストではなかったかもしれないが、常にベターな結果を出してきた自負がある。たまに、「自分は賢いと思っていたが、進学校にいったらもっと上の人たちがいて自信をなくした」というような話を聞くが、わたしはそのようなことが一度もなかった。しかし、研究の世界には、化け物のような研究者や大学院生がうじゃうじゃいて、とても自分にはかないそうにない。自分の能力のなさに苦しくなる。研究もうまくいっていないし、そもそも自分の研究テーマに興味がわかない。今の国際学会にも正直全然興味がもてない。やってもやっても全然結果が出ない今の状況に逃げ出したくなるばかりである。どれだけ自分自身に発破をかけても、無い袖は振れない。できないものはできない。それがとても苦しい。だから、余計に自分で自分をいじめてしまう。

 

学部時代の友人が今フランスの大学院で博士課程をやっている。彼女はとても優秀だが、博士号をとったあとは音楽の道にいくらしい。そうした決断をした友人を、わたしはとても尊敬する。わたしは、自分が以前に引いた当初計画に縛られ過ぎているのかもしれない。プライドが、当初計画を現実に合わせることを拒絶しているのだ。そして、内面的な充実よりも、目に見える実績を追い求めてきた。過程ではなく結果がすべてだと強く信じてきた。

 

もしかしたら、今やっていることとは別のスタイルで、思いがけない道があるのかもしれない。