午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

個性

なぜだかわからないが、とても心を病んでいる。行き止まりを感じる。先週の土曜日に日本社会学会で発表したときは、もっと生き生きとしていたのだが。

 

臨床心理士の先生の指導のもと、ユング派の治療方法であるアクティブ・イマジネーションというのをやっている。能動的に、自分の無意識と対話する方法だ。これがまた、パンドラの箱を開けてしまった感があり、無意識を制御できずにコンプレックスの侵襲を受けている。全然能動的になれていない。

 

コンプレックス。心的複合体。わたしは、自分の心のなかにこれほどまでに大きなコンプレックス(複合体)が存在することを知って恐れおののいてしまっている。それは、わたしの物語の中では、巨大な(わたしの8倍くらいの大きさ)ガラクタの塊が意思を持って暴れまわっているような感じだ。それが、あざ笑うかのように、わたしの自我に侵襲してくる。わたしは、このコンプレックスを激しく憎んでいる。しかし、憎めば憎むほど、彼は巨大化する。

 

大学院に進学して、己の道である研究職への道を進んでいる。もともとは、自由に生きたいと願ってのことだった。それがいつのまにか、賃金と引き換えに(いや、賃金をもらっていないとしても)、ある特定の役割を引き受けることとなり、意識はしないがある社会的役割を期待され、がんじがらめになってしまっている。それがいやだが、かといって20代前半のようにそれを投げ捨てるわけにもいかない。

 

手に入ったものが増えるにつれて、不安もまた大きくなっていく。安定した地位がほしい。しかし、安定して、保守的になればなるほど、執着するものも増えて、変化が怖くなっていく。それが等身大の人間というものだろう。

 

心的複合体=コンプレックスを鎮めたい。あるいは沈めたい。やつは手強い。ユングは、その解決策として、コンプレックスを程よく自我に取り入れ、自己実現することを説く。それを個性化というらしい。

 

わたし自身を含めて、本当に個性をもっているといえる人間を見ることはほとんどない。noteを見て驚いたのだが、みんな結構似たようなことを言っている。それでも、やはりおもしろいと思ったりするのは、どこかで読んだ思想ではなく、オリジナルな体験だ。概念よりも、痛みをともなう経験をもとにする。コンプレックスは、言ってみれば痛みの塊だ。それを鎮めるには、痛みを癒すことが必要だろう。しかし、日常生活を送っているわたしは、自分がどこで傷ついているのかさえもはや全然わからなくなっている。外面的に称賛されるほど、中身は空疎になっていく。多くの人と研究上の関係を持つなかで、自分の期待なんてもの、忘れてしまった。

 

アクティブイマジネーションで物語を作っていく中で、ひとつの方向性というか、自分の切なる欲求というものがひとつあることに気がついた。自立が、それである。もっと根本にあるのは、自由になりたいという欲求である。指導教員は親と同じくらいの年齢だが、親世代から独立したいと強く願っているものの、それが許されない徒弟期間であるからストレスが溜まっているのはあるのかもしれない。