午後の雨

らくがき未満

期末試験

8月に入った最初の月曜日、私は教卓から試験問題を解く学生たちを眺めていた。統計学の基礎的な授業の期末試験だった。電卓の持ち込みだけは許可していたので、教室には、学生たちが電卓を叩く音とペンで書く音だけが響いていた。彼らの学生証を確認したあとは、TAがいなかったので前から彼らが不正しないかを見ていた。彼らは、「椅子に座ってテスト問題を解く」ことによく訓練されていた。慣れた手つきで、椅子に座ってテスト問題を解くことの意義をまったく疑わず、目の前の問題に一生懸命取り組んでいた。

 

私は学生たちを見守りながら、生成AIが台頭する中、いつまでこの紙のテストを解くというスキルが意味をなすのかという、一抹の不安を覚えた。紙のテストを解く能力により社会で支配的な地位を保つことができる世の中がいつまで続くのか。意地の悪い言い方をするとそんな不安が、私を襲った。

 

そんな期末テストから横道にそれたことを合間に考えていると、終わった学生から順次私のところにきて答案と問題用紙を提出していき、テストは終了した。これで、私が持っている今期の非常勤講師としての授業のすべてが終わった。

 

今帰宅してブログ記事を書いているが、久々にブログ記事を書き始めたのは別に生成AIの問題を考えたいからではなく、自分自身のアイデンティティ危機について書き起こしたいと最近ずっと考えていたからだ。

 

またか、と思う人がいるかもしれない。こいつはいつも抽象的な問題ばかりに頭を悩ませているな。20代ならいざしらず、30代も中盤にさしかかった自分がアイデンティティについて考えるなんて、という気持ちもある。しかし、それでも書きたいという気持ちがあった。

 

きっかけは、先月、フランスにいる友達から電話がかかってきたことだった。彼女は、ずっと自分が仕事としてやってきたベーシストの道を続けるか、フランスの大学院で取得した生物学の博士号を持っているという経歴もあって、音楽以外の仕事をするかで悩んでいるようだった。

 

夜中に電話で話を聞きながら、正直私は自分がアドバイスできる立場ではないとは感じつつも、ハンナ・アーレントの著書『人間の条件』に労働/仕事/活動の区別があることを伝え、それらに即して今のバンド活動と仕事を分けて考えてみるのはどうかと言った。さらには、彼女は貯金が底をつきつつあるというので、ごくありきたりなアドバイスだが、とりあえず生業になるような仕事につき、音楽は趣味で続けたらいいのではないかと言った。その時の自分は、あまりやりたくもない非常勤の仕事に忙殺されながらも、小説などを少しずつ書いていた時期だった。電話はそれで終わった。いってみればその時の自分は、「地に足がついた側」だった。しかし、(人のせいにしているが)その電話があってから、ふつふつと自分自身のアイデンティティについて考えるようになってきた。あるいは、彼女との電話により、漠然とした悩みが顕在化したのかもしれない。

 

アイデンティティの森は翳っていて暗い。それゆえあまり深入りしたくない。だが幸か不幸か、今の自分には少しだけ考える時間があった。自分も博士号を取得したものの、アカデミアの常勤職になるべく就活中だ。アカデミア就活は厳しいという噂は常々聞いていて、頭では理解していたつもりだった。しかしいざ自分がやってみると、書類を作っては面接しては落ちるの繰り返しで、就活というものはこうも辛いものなのか、と現実を日々突きつけられていた。就活の面接は、悪いことばかりではない。自分自身の経歴を評価する側に物語ることを繰り返しているうちに、過去の早期離職の傷が癒えたりと、まったく悪いことばかりではない。だが、心の傷が少し癒えたくらいで生活が苦しいという構造は変わらず、「やりたいこと」であった社会学研究を仕事にしたがゆえに手を抜けず、かといってそこから逃げ出すほどもう若くはなかった。

 

半生をここですべて振り返るのは無理なので、自分が20歳であった13年前を起点に振り返りたいと思う。20歳のとき、自分は闇の中にいた。今の自分が受け持つ学生にもし20歳のときの自分がいたら、おそらく今の自分は彼にメンタルサポートを勧めていただろう。それくらい、20歳のときの自分は危なっかしかった。自分自身のストレスに耐えかねながら、そのこと自体に気がついておらず、自分のストレスは現実に投影され、東京の夜に黒い川の前で目眩がしたことがあった。死ぬつもりもないのに遺書のようなものを書き、叔父一家が住んでいたヨーロッパに2013年の夏、つまり季節としては今頃に旅立った。

 

あるいはこの話は個人的なので、日記に書いた方がいいのかもしれない。しかし、今の自分には日記帳を開く勇気がなかった。その日記帳は、ヨーロッパに行った時に買ったもので、まさにその20歳のときに書いた様々なことが書き記されていた。かといって、MacにWordファイルとして書くのもつまらないと思った。このインターネットの片隅に、自分自身の足跡を浮遊させたいと思っていた。

 

なぜ20歳のころ、そこまでストレスを抱えていたのか? ひとつにはそれは、学生から職業人への移行が意識される時期だったからだろう。加えてその時期、海外に行っていた父親と、日本にいた母親の関係が悪化し、地元に残してきた弟たちがどうも調子がわるいということを細切れで聞いていた。そして、22歳になったころに、頼りにしていた祖父が亡くなった。

 

20歳のころ、私は、新卒でサラリーマンという働き方が向いていないということに薄々気がついていた。通常、高学歴の新卒を採用するのは、ある程度受験勉強という計画的なものを乗り越え、「聞き分けがいい」からだろう。しかし、私は確かに受験勉強はしたものの、勉強が好きなわけではなく、学問に対する好奇心をドライバーとして生きてきた。だから、同じ高学歴でも、会社が想定するような人間ではなかった。はみ出したくて仕方がなかった(「暑いな、海外に行って涼もう」と思い立ったその瞬間にモスクワの航空券を取得するような人間だ)一方で、社会になじみたい、堅い仕事がしたいという思いも強く、その二律背反にずいぶんと苦しめられた。

 

かといって、今風に「起業する」など思いもよらず、卒業ギリギリまで友人の母親が代表をつとめている障害者福祉のNPOを見に行ったり、知り合いの父親がスーダンで展開している国際NGOを見にスーダンまで出かけて行った。自分に向いている仕事を探していたのだ。結局、卒業までに自分のやってみたいことは見つからず(本当は大学院に行きたかったが親には「行くなら自分の金でいけ」と言われ)、一旦は新卒カードを使ってみるかと思い就職したものの、半年で倒れてしまいそのまま無為徒食の身になってふらふらしていた。

 

半年ほどふらふらしていてから「地域おこし協力隊」になり北海道礼文島へ行った。海外に行く勇気はなかったが、せめて東京から一番遠いところを、と思って行ったのだった。最近の就活面接でも「なぜ礼文島に行ったのか」とほぼ毎回聞かれるが、実際には「遠くへ行きたかったから」としか答えようがない。私は、自分の人生の軌跡に、名前をつけられるような行動パターンをとっていなかった。

 

私は人を避けてきた。人前に立ったり社交をしたりするのが極めて苦手だ。なのに、いまやっている仕事は人前(100人以上)に立つ仕事だから笑ってしまう。それはともかくとして、その人・特に集団が苦手だという私の特徴、自分が抱える大きな劣等感は、私の人生に暗い翳を投げかけていた。

 

劣等感の源泉を辿ると、ひとつは親の階層が高いことがあるかもしれない。子供のころから、自分もそうだが親がすごいと褒められ、親の凄さと自分自身の凄さをすり替えてきた。結局、その行き着く先は、どっかの『山月記』ではないが、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」で、見栄えのよさだけを追求し、中身がスカスカであるという劣等感を抱え、逃げながら生きてきた。

 

しかし、いつまでも親のせいにしてはいられない。2年前、親が還暦を迎えた。親自らセッティングした赤いちゃんちゃんこをきた還暦祝い、親が「赤子に還る」という象徴的なこの行事を経て、あまり意味を感じていなかったこの行事に深い意味と感銘を受けた。強大だった親が赤子に還る道を歩み始めた。そのあと、両親が辿る道は死である。強大な太陽として私や弟たちを照らしていた親という太陽が翳り、そう遠くない将来に没してしまうことを考えると、私自身の親に対する心境はずいぶんと変わった。

 

親の陽が没した時、私は果たして自分の足で立つことができるか。仕事でも、博士号を取得して研究者としての自立を求められているこの時期に、ひとりで立つことを嫌でも求められている。私の妻は私よりも6つ下だが、私よりはるかに成熟しているように見える。妻は私とは逆で、紙のテストは苦手だが、それ以外の能力は高く、細部まで物事を深く考え、決して投げ出さない性格だ。そんな妻との関係を続けていくためにも、私は自分が自立して成熟した人間になる必要がある。

 

私の人生のドライバー(推進力)は何か? そう考え始めていた。(続く...かもしれない)

広島

22時すぎに、広島から大阪の家に帰ってきた。妻と一緒に行ったのだが、私の方が家に仕事を残してきたので、ひと足先に帰ってきた。

 

広島には、妻の母方の祖父母とおじが住んでいる。結婚の挨拶がまだだったので、GWを利用して妻と訪ねた。広島の山奥とは聞いていたが、広島市内にあり、思ったよりも便利なところだなと思った。そこに滞在しながら、2泊3日で原爆資料館や宮島観光をした。

 

原爆について、もともとは「なぜ原爆を落としたのはアメリカなのに、彼らを責めないのか?」と内心不満を抱いていた。だが最近は、広島の原爆体験は、「敵」「味方」を超えた圧倒的な悲惨であり、それを直接体験した人たちは、主語を「人類」にするしかなかったのではないか、あるいは、主語を「人類」にした飛躍こそが、彼らの凄みなのではないのかと考えるに至っている*1

 

原爆資料館の隣に、平和祈念館という小さな建物があり、そこは追悼の場所になっている。私は、14万人の御霊を象徴的に表現した平和祈念館に心を打たれた。地下に入っていくその建物の中心には、原爆投下直後に人々が求めた水を表現し、水が流れていた。それをドーム状に覆う形で、14万個のタイルがあり、そこに原爆投下後の広島市が描かれていた。静粛な空間で、彼らの叫び声、泣き声、悲しみが私の耳をつんざいた。

 

その体験について語ることは、誠に難しい。彼らの言葉、声は、言語のシステムに乗らないまま、沈んでいる。その時間は、とてもゆっくりであり、80年では、ほんの少ししか進んでいないだろう。実存的な時間感覚は、このように、忙しない日常の奥底に沈んだまま、私たちの底に流れている。

 

最近の私は、通っていた大学院で無事、博士(文学)を取得し、相変わらず非常勤講師として複数の大学で講義をし、なんとか生計を立てている。博士号を取得した喜びは1ヶ月ほどしか続かず、とったことで「研究者」としてこの世に押し出されてしまったことの戸惑いの方が正直大きい。業界内では、博士号をとってやっと半人前扱いなのだが、半人前にすらなれていないのではと不安に思う。非常勤講師をしながら常勤職へ応募するのだが、応募書類を書くのもなかなか大変で、しかもこの5月に締切が集中している。そんななかで、当然自分自身に向き合う時間を持てなかった。

 

実存の問題、というのは、つまり私はどう生きるべきか? という問いなのだが、この問いは日々の社会生活のなかではうまく収まる場所がない。しかし、実存的な問題と接点を持っていないまま仕事をするのは辛い。仕事の始原は、自分の腹を満たすための作業ではなかったのか? 今の私は交換経済の中で、他人のニーズを満たすために精神をすり減らしている。原爆資料館で体験したことなどを、自分の研究に活かすことはできないだろうか。今はその方法がわからない。自分の問いやオリジナリティがわからない。そのまま年を重ねていく。

 

明日は家で公募書類を作らなければならないので、今日はここまでにしよう。

*1:そう考えるに至った思考の枠組みとして、心理臨床家メラニー・クラインの「妄想分裂ポジション」と「抑うつポジション」という人間が取りうる2つのポジションについて議論がある。「妄想分裂ポジション」は、攻撃的で、敵か味方か、といういう二元論的思考などの原始的防衛機制とよばれる状況だ。対して「抑うつポジション」は、言ってみれば後悔のポジションで、自分が破壊してしまったのは実は自分にとって大切な存在だったのか、と気がつく状況である。私は、何年もの間ずっと、人が「妄想分裂ポジション」から「抑うつポジション」へと至るにはどうすればいいのかに個人的な関心を持っていた。しかし、クラインの本や、その解説本を読んだ限りでは、その具体的なスイッチはわからなかった。あわよくば、「悲惨」を経験せずに、「抑うつポジション」に至る方法はないのかと考えていた。しかし、その方法はないのではないかと今は考えている。戦後80年経って、世界は再び第二次世界大戦後の「抑うつポジション」から「妄想分裂ポジション」に移行しつつあるように見える。最近、やたら威勢がいい、強い調子の声があちらこちらで聞こえてきて、個人的には恐怖心を抱いている。ネーション(国家)に熱狂する人々は、また同じ過ちを繰り返すのか。政治的なことについては、私は相手が左右どちらかであるのかよりも、「妄想分裂ポジション」と「抑うつポジション」のどちらかかという方に注目する。

2026

2026年になった。年明けから寒い日が続いていた。しかし今日は気温が比較的高く、春の気配を感じた。

 

年末年始は実家に帰省していた。年明けに大阪に帰ってくるなり、提出した博士論文に関連する書類や、複数の大学の非常勤講師の仕事に忙殺されていた。そのなかでうまくいかないことも多く、自分を恥じることも多々あった。しかしめげているわけにはいかず、とにかくその日その日に対応することで精一杯だった。

 

「対応」という言葉を使ったのには理由がある。実家に、今は亡き祖父が私や弟たちの写真をもとに作ったアルバムが何冊も置いてある。それを見返したさい、今までは見逃していた祖父のあるメッセージを読んだ。小学校卒業に寄せたメッセージだった。

 

……(省略)……◯◯くんの成長ぶりは誰が見てもあきらかであり、それは充実した小学校生活によるものであることが分かります。何事にも純粋な心で素直に対応することができました。

しかし、中学校時代はさらに大人への一歩を進めることになります。視野がひらけかつての純粋さ・素直さは心の奥深くしまわれ、何事に対応するにも自分で自分自身を励まさなくては前に進めなくなります。中学校時代はかつての純粋さの上に「誠実さを」築いていかなければなりません。誠実さとは、自分で自分自身を励まし物事を処理していく「力」です。すなわち「努力」することが求められます。勉強にしろ、運動にしろ何事かに対応する場合、常に自身を大いに励まし励まし頑張って行ってほしいものです。中学校時代の「充実した生活」とは、この誠実さの積み上げ積み重ねであるということです。

 

この文章に出会った時、何の偶然か、出会うべきときに出会ったという感じがした。また、自分が今まで「誠実さ」を「純粋さ」と履き違えていたことにも気づかされた。

 

私はここに書かれていたような「充実した中学校生活」を送ることにはおそらく失敗しているが、33歳の今になってまさに(今更)この「誠実さ」を伸ばしていくフェーズに入ったと感じている。自分自身の動きを直視すると恥の感情ばかり湧きおこる。失敗ばかりする。しかし、「失敗するのは挑戦したからだ。すごいすごい」となんとか自分を慰め、励まし、年初から頑張っている。

 

他人に見せる「理想の自分」は、住吉大社の結婚式でひとつの到達点に達した。無事写真にも収めた。おそらく、自分の人生でもっともカッコいい瞬間を永遠に保存した。だから、ある意味で、他人に「理想の自分を見せよう」という姿勢は、その写真で終わりに達したのだと思う。「理想の自分を見せよう」という姿勢は悪いものではない。それがあるからこそ、背伸びしてわけのわからない哲学書を読んでみたり、大学院にいってみたり、いろいろなことをやった。

 

しかし、結婚式によって最高の自分を内外に示したことで、天よりも高い理想の自分を追い求める人生は終わった。結婚式で皇室献上絹の紋付袴を着た私は最高にカッコよかっし、妻の白無垢姿が美しかったのはいうまでもない。

 

結婚式のあと、自分の人生は恥とともに生きる愚直なステージに入ったのだと感じている。これから少しずつ老いていくので、できることができなる状況で「理想の自分」を捨てきれないでいると、一層恥の感覚が湧き起こることだろう。「恥 = 理想 - 現実」という式がもし成り立つとすれば、これからは理想のほうを現実に近づけていきたいと考えている。

 

とまあ適当に理屈づけしたが、情けない自分の「恥」とともに2026年を生き抜いていく所存である。

2025

12月も半ばになった。2025年もまもなく終わろうとしている。

 

振り返れば、新卒で会社に就職した2015年から10年経った。ちょうど、このブログを始めたのもその時期だ。ブログも10周年ということになる。

 

新卒で身体を壊して会社を辞めてから10年後の2025年、私は新卒のときに出会った「地域創生」というテーマを社会学的に発展させて博士論文を提出した。同じ時期、12月の頭には、結婚式を住吉大社で執り行った。

 

住吉大社に祀られている3神は、イザナギが死んだイザナミを求めて黄泉の国へ行ったものの、願いが叶わず帰ってきたときに、海で禊払いをして産まれた神々であるそうだ。思えば、私自身、この10年は黄泉の国を浮遊していたような感覚だった。

 

しかし、そうした独身時代は、荘厳な儀式とともに終わりを告げた。結果、禊払いで産まれたのがパートナーとの新しい関係と博士論文というふたつのものだった。10年前、いや、1年前でさえ、そうなることを誰が予想できただろうか。ずっと社会に適応できず苦しんでいた青年が、成人になったのだ。

 

とはいえ、まだ博士論文の審査が終わったわけではない。引き続き気を引き締めていきたい。みなさん、良いお年をお過ごしください。

11月

11月になった。しかも下旬だ。することがなくなったので(本当はあるのだが)、久々にブログを書こうと思う。

 

この数週間は、息をつく間もないほどドタバタしていた。大学で非常勤講師をやりながら、雑誌論文投稿、査読後の再投稿、12万字に及ぶ博士論文原稿の予備審査への提出、婚姻届の提出、助教職への応募、面接。これらが一気に押し寄せ、そして全部を乗り切った。今はやる気がでない(無理もないかもしれない)。

 

ぼんやりしていると、自分自身の問題が浮き上がる。小説を書いているのだが(何年も同じものを書いており、一向に完成する気配がない)、そのなかで、はるか昔(小説のなかでは戦前)に湖に沈められて殺された自分自身の像が浮かび上がってきた。自分のなかの自分自身とうまくつながることができず、持ち前の能力の高さでなんとか日々をごまかし生きている。この問題を解決しなければ、自身の人生が浮かばれない。そんな心の深い痛みに気がつき始めている。言葉にできない言葉がある。

家事の身体性

今日は、名古屋にいる。名古屋で開かれている学会に参加するためだ。ところが、名古屋にはきたものの体調が悪くなり参加を見送ったため、地元で過ごす時間ができた。今は栄のマクドナルドにいる。

 

思えば、このブログを書き始めて十年になる。「搾取される身体」というのが、最初の記事のタイトルだった。

 

hayatokat.hatenablog.com

 

 

今また、身体についての記事を書こうとしている。タイトルは、「家事の身体性」だ。最近、私は家事というものに真剣に取り組もうとした。4月にパートナーと住み始めてから(いやそれ以前から)家事というものが私たちの揉め事の大きな種だったからだ。その溝は今も埋まっていないが、私自身の問題としては、家事を(いいか悪いかは別として)軽視していたことにあった。そこで、Youtubeショートでトイレ掃除やキッチン掃除などについてさまざまな動画を視聴し、それをお手本に実践することを始めた。

 

自分で調べて、実践して、フィードバックしていく。この一連のプロセスにより、主体性が芽生えた。また、腰をすえて磨くことで、自分の身体の使い方にある決定的な変化が現れた。言葉ではうまくいえないが、以前よりも重心が安定したような感覚になっている。それが、いわゆる自立(自分で立つ)につながるような感覚である。

 

家事は、ソクラテスの言葉を借りれば「魂の世話」であると感じた。いわば、搾取されない身体の使い方である。自分自身の魂の世話ができる人こそ、本当の意味で自立した人ではないか。そういう意味で、自分は自立に向かっている(あるいはもうしている)のだろう。また、家事は時短といっても、やはり時間がかかる。ひとつひとつ磨いていく過程は、自分の早すぎて飛んでいる思考を減速させる力を持つ。

 

これから、自分の人生は第三章に突入する。第一章は、地元での子供時代、第二章は東京に出てからの独身時代、そして第三章はパートナーとの時代。第二章では自分の存在理由について大いに悩んだ。第三章では、今以上に生活に追われるだろう。自分だけではなく、自分以外の人の生活に責任を持つことになるだろう。その準備は、着々と進んでいる。

お盆

午前0時半を回っているが、ふとなにかを書きたくなってパソコンを開いた。

 

お盆である今週、わたしは家で黙々と論文を書いている。締め切りが近いものがいくつもある。ラジオからは、戦争の話が聴こえてくる時期だ。

 

今日はなんだか眠れそうにない。今まで、過去にとらわれてばかりいたが、今や過去の辛い出来事はどうでもよくなってきている。わたしは3ヶ月半後に予定されている結婚式に思い至った。大きな神社で挙式する予定で、なんだかんだ毎月1回くらいはその神社で打ち合わせをしている。結婚式を希望したのは自分で、やはりケジメというか儀式をしたいというのがその理由だった。

 

恋人は白い花嫁衣装、自分は黒い袴を着る予定だ。花嫁衣装は、小物からなにから時間をかけて選んだ。これらの作業は手間だと感じることもあるが、それもすべて、喪の作業と考えれば腑に落ちる。結婚式は、自分たちが生まれ変わる、死と再生の儀式である。過去の自分は死んで、今の自分が立ち上がる。それをまわりの人たちが承認する。象徴的な儀式である。現代では望んでも得ることが難しい、成熟のための通過儀礼である。

 

ちなみに、明日15日の正午には玉音放送Youtubeで聴こうと思っている。戦後80年を、少しでも継承したいと思うからだ。