22時すぎに、広島から大阪の家に帰ってきた。妻と一緒に行ったのだが、私の方が家に仕事を残してきたので、ひと足先に帰ってきた。
広島には、妻の母方の祖父母とおじが住んでいる。結婚の挨拶がまだだったので、GWを利用して妻と訪ねた。広島の山奥とは聞いていたが、広島市内にあり、思ったよりも便利なところだなと思った。そこに滞在しながら、2泊3日で原爆資料館や宮島観光をした。
原爆について、もともとは「なぜ原爆を落としたのはアメリカなのに、彼らを責めないのか?」と内心不満を抱いていた。だが最近は、広島の原爆体験は、「敵」「味方」を超えた圧倒的な悲惨であり、それを直接体験した人たちは、主語を「人類」にするしかなかったのではないか、あるいは、主語を「人類」にした飛躍こそが、彼らの凄みなのではないのかと考えるに至っている*1。
原爆資料館の隣に、平和祈念館という小さな建物があり、そこは追悼の場所になっている。私は、14万人の御霊を象徴的に表現した平和祈念館に心を打たれた。地下に入っていくその建物の中心には、原爆投下直後に人々が求めた水を表現し、水が流れていた。それをドーム状に覆う形で、14万個のタイルがあり、そこに原爆投下後の広島市が描かれていた。静粛な空間で、彼らの叫び声、泣き声、悲しみが私の耳をつんざいた。
その体験について語ることは、誠に難しい。彼らの言葉、声は、言語のシステムに乗らないまま、沈んでいる。その時間は、とてもゆっくりであり、80年では、ほんの少ししか進んでいないだろう。実存的な時間感覚は、このように、忙しない日常の奥底に沈んだまま、私たちの底に流れている。
最近の私は、通っていた大学院で無事、博士(文学)を取得し、相変わらず非常勤講師として複数の大学で講義をし、なんとか生計を立てている。博士号を取得した喜びは1ヶ月ほどしか続かず、とったことで「研究者」としてこの世に押し出されてしまったことの戸惑いの方が正直大きい。業界内では、博士号をとってやっと半人前扱いなのだが、半人前にすらなれていないのではと不安に思う。非常勤講師をしながら常勤職へ応募するのだが、応募書類を書くのもなかなか大変で、しかもこの5月に締切が集中している。そんななかで、当然自分自身に向き合う時間を持てなかった。
実存の問題、というのは、つまり私はどう生きるべきか? という問いなのだが、この問いは日々の社会生活のなかではうまく収まる場所がない。しかし、実存的な問題と接点を持っていないまま仕事をするのは辛い。仕事の始原は、自分の腹を満たすための作業ではなかったのか? 今の私は交換経済の中で、他人のニーズを満たすために精神をすり減らしている。原爆資料館で体験したことなどを、自分の研究に活かすことはできないだろうか。今はその方法がわからない。自分の問いやオリジナリティがわからない。そのまま年を重ねていく。
明日は家で公募書類を作らなければならないので、今日はここまでにしよう。
*1:そう考えるに至った思考の枠組みとして、心理臨床家メラニー・クラインの「妄想分裂ポジション」と「抑うつポジション」という人間が取りうる2つのポジションについて議論がある。「妄想分裂ポジション」は、攻撃的で、敵か味方か、といういう二元論的思考などの原始的防衛機制とよばれる状況だ。対して「抑うつポジション」は、言ってみれば後悔のポジションで、自分が破壊してしまったのは実は自分にとって大切な存在だったのか、と気がつく状況である。私は、何年もの間ずっと、人が「妄想分裂ポジション」から「抑うつポジション」へと至るにはどうすればいいのかに個人的な関心を持っていた。しかし、クラインの本や、その解説本を読んだ限りでは、その具体的なスイッチはわからなかった。あわよくば、「悲惨」を経験せずに、「抑うつポジション」に至る方法はないのかと考えていた。しかし、その方法はないのではないかと今は考えている。戦後80年経って、世界は再び第二次世界大戦後の「抑うつポジション」から「妄想分裂ポジション」に移行しつつあるように見える。最近、やたら威勢がいい、強い調子の声があちらこちらで聞こえてきて、個人的には恐怖心を抱いている。ネーション(国家)に熱狂する人々は、また同じ過ちを繰り返すのか。政治的なことについては、私は相手が左右どちらかであるのかよりも、「妄想分裂ポジション」と「抑うつポジション」のどちらかかという方に注目する。