深夜0時過ぎ、ウイスキーをハイボールにして飲んでいる。グレンファークラスのカスク・ストレングスとかいう強めのウイスキーだ。そして、この記事を書こうと思った。
月の見える夜、恋人と大きな公園を散歩した。噴水のようなモニュメントの前に座って、ぽつぽつと話をした。恋人は、最近降りかかるいろいろなことでかなり苦しんでいる様子だった。
はじめて紅茶専門店で彼女に会ったときから、私は彼女が見えるなにかがごく自然に見えていた。おそらく彼女も、彼女なりの仕方で、私が見えているものが見えているのだろう。私は、そのときから彼女の光に導かれ、そして今、彼女に降りかかる見えないものから彼女を守りたいと思っていた。そのためには、抱きしめるしかなかったが、いざというときは、小さなことにおびえていてはだめだと思った。
今まで自分は中動態的な世界に留まり、閉じ込められていた。しかし、先の調査や今回の出来事を通して、(國分先生がスピノザを通して否定していた)自由意志、つまり過去や置かれた状況に反逆することによって次に進む能動態的な決意こそが、自由への道だということを理解した*1。
生まれた条件は変えられないけれど、自分の生き方や未来は自分で決められる。決意の光の先に自由がある。人生は選べる、それが自由なのだと、私は恋人に伝えたかった。
*1:國分先生は能動態と受動態の間にあるという中動態の説明として、カツアゲされた状態でお金を出す、という例を出し、そのときお金を出したという行為は能動でも受動でもなく、中動態的であるとしていた。そのたとえに引きつけて言えば、能動とは、カツアゲをされているという置かれた状況を拒絶して、相手から逃げたり、相手に立ち向かったりすることだろう。國分先生は能動態的な自由意志に否定的で、存在しないとまで言い切っていたが、私はそこに非常に肯定的な意味を見出したいと思う。何かを断ち切ることで、人ははじめて主体になるのだ。なぜなら、断ち切るということは、主体と客体を区別することだから。