午後のまどろみ

らくがき未満 / less than sketches

箒星

 『堀の中の美容室』という漫画を読んだ。女子刑務所のなかにある美容室を描いた小品である。

 

この漫画を読んで、「向き合う」ということを改めて思い出した。最近自分は向き合っていただろうか、自分はなにと向き合うべきか、と自問した。答えは案外すぐに分かった。昔の記憶である。

 

2年前、私は恋人に振られた。期間は長くはなかったものの、心を深く通わせていた存在だった。その記憶は細部まで残っていたものの、無意識のうちに強く蓋をしていたのだと向き合ってみてわかった。最近まで、理由もなく突然発狂しそうになることに対する予期不安があって、たまに薬も服用していた。その大きな要因が、明らかになった。

 

振られたとき、まわりは「時間が解決するよ」と言ってくれたが、私の心の時間は止まったままだった。向き合ってみてはじめて気がついたのだが、私は、自分自身の心の部屋から追い出されていた。立方体の心の部屋の9割を封印された記憶の球体が占め、自分は部屋の外側に押されていた。それが発狂への予期不安の原因であるように思われた。部屋の構図はまったく意識にのぼっていなかった。2年もそんな状態だったのに、私はそれを認識することができなかったのである。ぼんやりと、白い霧のようになっていた。その構図に気がついた私は、部屋の中心を占める大きな記憶を、眺めるということをした。したくない作業だった。だが、今がまさにそれをするタイミングであるような気がした。

 

ただ過去の記憶を眺めた。没入して当時の感覚のまま追体験するのではなく、借りてきたドラマを見るような感覚で。時間が止まっていたとはいえ、2年前の自分と今の自分は違う人間である。別人としての自分の記憶を、くつろいだ格好で、観た。

 

さまざまな断片的な映像が思い出された。月が見える日の夜、家庭教師を終えた自分が彼女と大学で合流し、誰もいない彼女のラボで教えることがうまくいっていなかった子どもの対応をどうすればよいのかを真剣に話し合ったこと。ある日の夜中、神経衰弱していた自分に「私にはあなたがいつか立派な社会学者になることがわかる」と言ってくれたこと。博士課程で中国政府から給料をもらっていた彼女が精神的なストレスから不眠に悩まされていて、「あなたがそばにいないと眠れない」と言ったこと。別れの微かな兆候を感じとり、自分が不安でいっぱいになっていたこと。そしてそれが現実になったこと。心変わりの残酷さを知ったこと。それがあまりにもどうしようもないことだったから、海外の学会から帰ってきた彼女が切り出した別れの決意を素直に受け取ったこと。それから、悲しみと苦痛の渦に飲み込まれて回復しないまま今日まできたこと。ちょうどそれを眺めているとき、mr.childrenの『箒星』という曲がiPhoneから流れていた。彼女と一緒にいたとき、よく聴いていた曲だ。

 

しかし、と思った。『箒星』は、彼女がいなくても、良い曲だ。別に、彼女と聴いたからこの曲が好きなのではなくて、この曲はもともと好きだったのだ。ところで一昨日、堺の旧市街地を今の恋人と自分の研究室の後輩2人とで観光したのだが、その時の出来事から、自分が「しなやかさ」を失っていたことに気がついた。自分の狭い世界のなかの好みに執着していたと思った。茨木のり子の詩の一節が思い浮かんだ。「しなやかさを失ったのはどちらなのか」と。なにかに執着するとは、別のなにかへの可能性を閉じることである。そう思った。なにかに執着すれば、別のものが見えなくなる。自分が執着していたものは、過去の恋人との記憶である。そうすることで、別の可能性を閉じていた。では、別の可能性とはなにか?それは紛れもなく、今の恋人だった。

 

名古屋を出て、マッチングアプリを始めて、そこですぐにつながったのが今の恋人だった。当初の「軽い」私の気持ちは、今の彼女と心を(再び傷つくことに怯えながらも)すこしずつ通わせていく過程で、「重い」ものに変わった。高校生以来の真剣な告白をし、付き合ってくれることになった。先日の彼女の誕生日には、熟考して、彼女に一番似合うネックレスを買った。それは一見すると地味なシルバーのデザインだが、角度を変えるとそのとき見せてもらったもののなかで一番光っていた。今の彼女が好きな『怪獣の子供』という漫画の中で、自分は登場人物が言った「光るものは、見つけてほしいから光るんだよ」というセリフが心に残っていて、それがそのネックレスに決めた理由だった。彼女は私に会うときいつもそれを身に着けているが、とても似合っていると思った。プレゼントは、ただ相手が欲しがるものではなく、そこに自分の想いも乗せるものだとネックレスを選んだときに理解した。私から見て、今の彼女はとても光っていた。

 

昔の恋人が自分に残してくれたものは(そう前向きに思えたのは今がはじめてだったが)、愛情は注ぎ続けないと枯れてしまうということだった。当たり前だと思った瞬間に、それは瓦解する。諸行無常、一期一会、である。極端にいえば、毎秒毎秒私達は新たに出会っている。

 

今の彼女も、前の恋愛で傷ついたらしく、次付き合う人の条件として、「私をちゃんと見てくれる人」と決めていたらしい。私は、紛れもなく彼女のことをちゃんと見ていた。しかし、見ないようにしていたことがただひとつだけあった。それは、彼女も私のことをちゃんと見ているということである。また失うことが怖くて、その事実から目をそむけていた。しかし、昔の恋人との記憶をひととおり見終わって霧が晴れたあと、視界良好な私の目に見えたのは、今の恋人の私自身への眼差しであった。もしも愛するということが、相手を心の目で見つめることだとしたら、私達は紛れもなく愛し合っていた。ようやく、私は本当の意味で、今の彼女の愛を受け入れることができた。そう思った瞬間、私はライン電話をつなぎっぱなしにしていた彼女に、今すぐにでも会いに行きたくなった。

 

 

 

 

海獣の子供 全5巻完結セット (IKKI COMIX)

海獣の子供 全5巻完結セット (IKKI COMIX)