午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

根をもつこと

無意識の王国から追放されたトリスタンは、長い旅路を経てついに故郷に帰ることになった。彼は、もはや追放された者ではなかった。

 

彼は10年ほど前、故郷から逃亡の旅へ出た。耐えられない出来事が続いたからだ。彼は故郷のすべてを否定した。出自を隠した。街に出た前の過去との絆を断ち切った。何もない故郷はひどいところだと思い、軽蔑した。肌の色の違う、街の民に心の底から生まれ変わりたいと願い、もとの肌の色を隠した。だが、彼は夜な夜な悪夢にうなされ、夢の中で不気味な甲冑を身に纏った軍隊の行進に脅かされていた。

 

彼は街から街へと旅をした。ある街に身を置いたが、神経は日に日に衰弱し、逃げ場がない感覚に囚われた。新型の感染症が世界的に猛威をふるい、世情は不安定になっていた。彼は不信に囚われ、仲間を失い、猜疑心と敵対心に塗れて孤立していった。道ゆく人に愛を乞いたが、満たされることは決してなかった。そんななかで、彼はひとりの女性と出会った。ふたりはすぐに恋仲になった。逢瀬を重ね、彼は彼女の愛に、ときに怯えながらも少しずつ触れていった。

 

恋人は、彼とは違い、自分自身の故郷を愛していた。彼は彼女に連れられ、彼女の故郷を一緒に見て回った。彼は、彼女とおなじくらい、彼女の故郷に惹かれていった。恋人は言った、「あなたはどこの国から来たの」。彼は以前とおなじように、彼の王国の酷さについて繰り返し語った。彼に石を投げ、信頼を破壊した王国のことを。「あなたの国に、いつか行ってみたいな」。言われた時、彼は彼女の言葉が理解できなかった。街から恋人の故郷に行く道中が、どうも彼の故郷に似ていることに気がついた。そうして、それは旅愁に変わっていった。

 

恋人と一緒に深い海に潜り、底から泳ぎ回る魚たちを見た。光が、海の上から降り注いでいる。大きなクジラや小さな魚の群れ、海底で眠る深海魚、そして海の底に根を張る巨大な木を見た。自分が生まれるより遥か昔から受け継がれる生命を、彼はまのあたりにした。少しずつ、彼と故郷の王国を隔てた氷が溶け始めていた。自分自身の肌の色を、受け入れる準備がわずかながらもでき始めていた。

 

ある日、王国の古き友より手紙が届いた。彼は旧友と再び交われることを喜んだ。そして彼がいままで無意識の領域に追いやっていた王国の思い出、育てられた愛を思い出した。彼が葛藤の中にいるあいだ、彼のそばにはいつも恋人が寄り添っていた。

 

彼は理解した。夢の中で毎晩襲った王国の軍勢を率いた少年は、ただ彼に、愛という名の置き土産を届けたかっただけだったのだ。かくして、彼の魂は故郷とのつながりを取り戻した。旅はもはや終わりに近づいていた。

 

これからは生きていこう!我が身の肌の色をもはや隠すことなく。大地にしっかりと根を張りながら。地球を踏み締め、天高く空へと。