午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

日曜日

日曜日の朝、父の日だったので、父親にメッセージを送った。「毎日、大変だと思うけど、一日一日大切に過ごせよ」と返ってきた。少し前だったら、定型句として聞き流していたかもしれない。しかし、父親がこの言葉を実感を込めて本心から言っていることが私にはわかったし、いろいろ経験してきた今はその何気ない言葉の意味がはっきりとわかる。

 

午後は女の子と待ち合わせして天王寺から新世界を通って難波まで歩いた。新世界でははじめて浮いている大きなフグ(?)のようなものをみた。くいだおれ人形はいなかった。撤去されていた。敬語から急に関西弁に変わった6歳年下の女の子は可愛らしかった。向こうは私のことをどう思っているのかはわからないが、彼女は、何か、自分には持っていない、自分には理解し難い底しれぬ世界を持っている気がした。それがとても魅力的だと思った。雑多な新世界、日本橋、そして難波といったミナミの街を歩きながら、こんなに絵に描いたような楽しい思いをして良いのだろうかと思った。しかし、その謎の罪悪感も無駄だと思った。

 

嵐のような自分の人生にも、こういう無風の晴れた日がある。その前日に嵐があったことも、これからも大荒れの天気が幾度となく訪れるだろうことも、そんなことどうだっていいじゃないか。自分が何者で、その子が誰で、ここがどこでなぜここにいるのか、そんなこともどうだって良いとおもった。私達は、今に至るまでの物語、あるいはプロセスをあまりに重視しすぎる。そして、現実を理解するために自分たちが作った概念装置を、現実そのものと誤認してしまうのだ。

 

自分に対する「理解」も、相手や世界に対する「理解」も、究極的にはすべて間違っている。現実を理解するためにこしらえた「物語」は常に生成と消滅を繰り返す。常に別の角度からの解釈が生じる。その対象となる現実そのものは常に変化していく。自分が形成したストーリーと、本物の現実というのは常に全然違うものである。

 

自分がその子と大阪を歩いていたことは、「当たり前」ではなくて「有り難い」ことだし、私達はたとえ毎週会ったとしても「一期一会」を繰り返している。自分の親くらいの年齢の人がよく言う「日々に感謝」のようなセリフに対して以前は内心「うさんくさい」と反発していたが、今は実感としてわかる。自分で生活してみて、生活を成り立たせて社会で自力で生きていくことがいかに大変かがわかって、そう思うようになってきたからだ。

 

私は、今を生きていく。それは別に、過去や未来を大切にせず刹那的に生きていくという意味ではない。過去も未来も、小さな自分も悪い部分も、相手も受け入れながらぎこちなく人生を楽しく踊っていきたい。