午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

ピアノ

天気が悪かった。オンラインでゼミが終わった後、疲れ果ててピアノを弾いた。びさびさにのめり込んだ。今日は珍しくドビュッシーを弾いた。『夢』という曲だ。小学生のときにこの曲に耽溺していた。それは今もあまり変わらない。

 

鍵盤が構成する音色から、私の「声」が滲み出てくる。それは、私のなかのもっとも繊細な部分、私そのものである。私は身体だけでなく、神経もほっそりしている。私は、そんな「私」が些細なことにも感動し、逆に傷つくことを知っている。人びとの「空気」を過剰なほどに取り込んでしまうのだ。だから、普段の私は鎧を着ている。大人の私が、繊細な「私」を守っているのである。大人の私は、そうした「私」を守り抜く覚悟である。私は、「私」の最大の理解者であるつもりだ。もっといえば、愛している。だから、偏見と差別に満ちた社会からどんなに謗られようが、「私」を守り抜きたいと思っている。

 

だが、日常に埋没していると、そんな「私」のことも忘れ去ってしまう。鎧を着た外面の私が本質なのだと勘違いしてしまう。そしてときどき自分を見失う。今もそうだった。だから無意識にピアノを激しく弾いた。先生が聴いたら怒るような、テンポの乱れた、感情任せの「子供の」演奏をした。しかし、それによって鬱屈のある部分は浄化された。

 

ところで先程、研究のことを友人に相談したら、「逃げればいいよって言われたら?」と聞かれた。自分のなかでは、まだ逃げるという選択肢はまったくなかった。これは初めてのことだ。今まで、逃げ足の早い方だった(おそらく今も)。大前提として、私は逃げるという行為をまったく否定していない。むしろ危なかったらなるべく早く逃げたほうが良いと思っている。しかし、自分にとって研究は、「逃げたい」ではなく「(困難を)打ち返したい」という気持ちのほうがいまのところ圧倒的に強い。

 

自分がうまく研究ができるとは思っていない。それゆえ苦い思いをしている。研究の荒野があまりにも広く険しく、自分なんかにできるものなのだろうかと悩んでいたのだ。だが、粘り強くやれば最低限を超えられるような気もほんの少ししていた。何度も言うが、その点は馬鹿になって手放さずにもう少しやっていきたいと思っている。それもわからないが。最近読み返したいと思っているクンデラの『存在の耐えられない軽さ』には、こんな一節がある。

 

「何が欲しいかなんてわからない。なぜなら人生は一度きりで、前の人生と比べたり、次の人生で完璧になんてできないのだから」 

 

本当に、人生にはピアノの発表会のリハーサルのような、練習はない。生まれた瞬間からいきなり本番に放り込まれる。そして突如打ち切られて死ぬのである(運が良ければ死ぬ方は予測できるが)。私自身、地域研究というやりたくもない研究テーマに放り込まれている。しかし、やりたくもないということを強みにしたいとも考えている。

 

人生は、わからない。年を追うごとに人生の複雑さというものに目をみはるようになる。あるときから私は不可知論とでもいうべき「わからない」にたどり着き、深刻ぶって考えることを手放した。その瞬間、自分は宇宙の一部になった気がした。私中心の世界から、宇宙が中心の世界への転回である。

 

しかしそれでも、「私」というものはおぼろげながらにも確かに存在する。私が死んだらそれは私の終わりであり、宇宙の終わりではない。エネルギー保存の法則に従うとはいえ、私の「意識」というものは私の死とともに終わる。その点はごまかせない。たとえみんなで一緒に死んでも、私にとって死ぬのは私ひとりなのである。そこに苦悩がある。「私」こそが苦悩の源泉であり、それはたとえ釈尊に無明だと諭されたところで、簡単に手放せるものではない。私は私の五感を生きている。それは手放せないし、はいそうですかと否定したくない自分もいる。それが苦悩である。

 

私がどこにたどりつくのかはわからない。また話が変わるが、先程三島事件について少し調べた。三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で起こしたあの事件である。率直に言って、馬鹿だと思った。私はまったくの食わず嫌いなのだが三島と太宰が大嫌いだ。特に三島が。代表作と言われているものを手にとって見たことがあるが、文体が気持ち悪くて最後まで読めなかった。ナルシシズムやつくられた感じがどうにも受け付けなかった。なので私はどんなに名作と称されていようとも、読者としての最後の権利を使い、読むことを拒否した。市ヶ谷での事件も(普段あまり悪口を言うということをしない私ではあるが)こき下ろしたくなった。あまりに愚かすぎて。

 

あれは、頭だけで考えた人間の成れの果てである。本物の思想というものは、生活に根ざしているものだと思う。しかしかれの「思想」には生活の足場がないように思えた。演説している際に自衛隊から罵声を浴びたらしいが、私は彼らの罵声のほうがよっぽど真実を含んでいるように思えた。

 

先程弾いたピアノと同じように勢いに任せて文章を書いたのでとりとめのないものになってしまったが、今日はここまでにしておく。