午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

内省

ここ数日間、天気が悪かったせいか、どん底に沈んでいたのは昨日書いたとおりだ。そして今日は、天気が良いせいか心配になるくらいハイな気分になっている。様々なアイデアが溢れ出て、自分でも制御しきれない。多幸感にあふれている。そのうちいくつかをここに書き留めておく。

 

まずは、どん底に落ちることの意味について。どん底にあるとき、1mmも前に進んでいないような錯覚に陥るが、それは違う。少なくとも、その期間は自分の人生にとって貴重である。どん底に陥っているときは何も考えていなくても、その期間が終わって、前に取り組んでいた問題に再び向き合うとき、自然とものの見方がアップデートされている。つまり、どん底に陥る前と後では何かがポジティブに断絶している。その何かとは、おそらく、その問題の自分にとっての意味付けや意義についての理解である。そして今回のそれは、研究であった。

 

数日前、電話で泣き言を言っていた私は、「もう研究向いてないからやめたい」というような趣旨のことを言った。本気で向いていないと思った。本気で投げ出そうと思った。本気で辞めようと思った。この修論が完成しようが失敗しようが、これを最後にしようと思った。私が日本学術振興会から勝ち取った予算に対する研究計画書には「地域おこし」研究に従事すると書いてある。しかし少なくとも昨日の時点では、すっかり地域おこしなどというものに関心がなくなり、都会の研究をしたいと考えていたのだ。そこで、研究題目の変更はできないと知り、こんなことでPh.Dを取れるのかと心底不安になって、投げ出そうと思った。それをきっかけに沼にハマってしまったのだ。

 

しかし今日、朝起きて、朝日を浴び、いつものようにゆっくりとミルでコーヒー豆を惹き、パンを食べたころには、それに対する解決策、というよりも覚悟のようなものが芽生えてきていた。結局、自分が地域おこし協力隊のときに「地域おこし」の研究にかけた想いは、現状地域おこしがどうなっているのかという実証的(positive)なものではなく、これからどうすればよいのか、という規範的(normative)な問いであり、これこそが私を住民アンケート調査や研究へと駆り立てた原動力であった。すなわち、私がワクワクしたのは、それが「未来」とつながっていたからであった。

 

今日、「どう生きればよいのか」という問いにすぐに答えられる人はいないだろう。それだけ、世の中が混乱している。今日をどう生きればよいかは、かろうじて昨日の知識経験の延長であるが、明日のこととなると心もとない。それが正直な気持ちではないだろうか。

社会学は、昨日や今日がどうなっているのかを分析することには忙しいが、それが明日とどうつながっているのかを明確に示した研究というものは少ない。しかし、人々、とくに私たちのような若い人々が知りたいのは、明日をどう生きればよいのかである。

 

学問の究極の目的とは、「よりよく生きること」であると思う。そして社会科学の役割は、「私たちがよりよく生きること」であると思う。真理を明らかにすることはもちろん必要条件ではあるのだが、十分条件ではない。そのために無数の研究トピックから「文化意義」のあるトピックを狙い撃ちにする必要がある。全国の「課題先進地域」で行われる「地域おこし」は、そのトピックとしてふさわしいのではないか。そういうふうに、自分の中で「地域おこし」という研究の意義がアップデートされた。「地域おこしの社会学」という博士論文を書きたい。今日の時点ではそう思った。明日はどう思うかわからないが、とりあえず思いついたことをメモしておいた。