午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

沼...から抜け出すためには

前回、沼にはまってしまった、と書いた。

 

沼にはまりながら、ただひたすら考え事をした。

なぜ、自分は沼にはまってしまったのか?それを考えた。

 

数日間にわたる考察の中で、自分は今、沼にはまるべくしてはまっていることに気が付いた。

沼にはまった原因はいくつか思い当たった。

 

そのうちのひとつは、自分の人生に対して力みすぎであったことである。

何事も全力なのはまあいいとして、不必要に力を込めていた。

 

学部時代、感情そのままでドビュッシーを弾く私に、敬愛するピアノの先生は「それは子供のような弾き方ね」とたしなめた。

 

ドビュッシーを弾く上で特に大事なのはa tempo(テンポ一定)で弾くことであり、表現はその上に抑制しつつもさりげなく乗せるのが「大人」の表現であると言った。

 

余談だが、日本フィルの伴奏もつとめていた先生は、レッスンに行くと丸山眞男の音楽評論をもとに議論するような知的な女性だった。

 

また別の機会に先生に「プロの条件って何ですか?」と尋ねたところ、彼女は「どんな不調なときでも結果を残すこと」と言った。「職人が一番偉い」とも言っていた。

 

それを今になって思い出し、数日間まったく手をつけていなかった研究に、一日3時間、決まった時間に、やる気があってもなくてもとりあえずやることにした。今日は初めてそれを実行したのだが、あれほどエンストを起こしたかのように無気力だったのが、不思議なことに3時間どころか今の今にいたるまで研究をすることができた。

 

やる気があるときは、誰でも熱心に取り組めるものだ。むしろ、やる気がないときにこそ人の真価が問われるのではないか。自分は、いかにやる気を出すかよりも、いかにやる気がないときでも最低限取り組むことができるのかにこだわっていきたいと思う。

 

そのためのヒントは、「習慣」である。「習慣は第二の天性」という格言があるが、1日壁を100回叩くことを目標にしつつ壁を叩く意義に苦悩するよりも、無意識に1日1回叩いて気が付いたら壁が壊れていたような状況が理想である。

 

力むのをやめることにした。全力で生きないことにした。

人生をドラマチックな物語で埋める必要はない。

 

以前は生まれてきたからには何か作品を残したいと考えたものだが、そんなの仮に残せたって知れたものだ。

自分が死ぬときには、自分が生きていたことを自分が知っている。それで十分だと今は思う。

村上春樹が死ぬとき墓標に「少なくとも最後まで歩かなかった」と書いて欲しいというのなら、私はむしろ「ゆっくり歩くことの意義を誰よりも理解していた」と墓標に刻んで欲しい。

 

もうひとつ、研究が進まないことに関して思い当たる大きな原因があった。おそらく、今までは会社員時代も含めてデータ分析や理論などを次々に習得し、分析を楽しんでいたが、それが飽和状態に達したのだ。ふと、出来上がったアウトプットを見て「この分析手法に何の意味があるのだろう?」と考え始めた。何をやっても似通って手法になってしまい、飽きてきた。意味を感じなくなってきた。

 

これは、順当な成長だと思った。スポーツで言えば、スランプだ。次のステップに行くために必要なものだ。そのためには、枠組みをもっと深いレベルから組み立て直さなければならない。

 

AからZまで飛ぶのは無理だ。BかCくらいを目指す。

大きな夢より小さなチャンスを探り当てることを意識する。諦めることと諦めないことを選別する。

 

実際問題自分の生き方などそう簡単に変えられないと思うが、少しずつ取り組んでいきたい。

 

静かな寂しさを内に抱えながら。