午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

訴え

まるで、長い夢を見ているようだった。

 

東京での、2年ぶりの学会発表。品川での弟との再会。そうしている間に病室に訪れた、恋人の学部時代の親友の死。

 

家でトラウマの本を何冊も読んだ。大学で学生相手に教壇に立って授業をした。恋人が就職先を決めた。カウンセリングルームで何かを話した。中東で虐殺が起こった。

 

丹波篠山で黒豆を収穫させてもらった。小雨が降った。恋人が満面の笑みで、黒豆がなっている房をこちらに持ってきた。帰り道、夜の大阪で来年度の引越し先の話をした。

 

陽の光と、大粒の涙の間を何度も往復する。なぜ泣いているのかもわからない、そもそも、泣いているということにすら気がつかない。

 

生きているとは、どういうことなのだろうか。生きられなかった人がすぐ近くにいる。丹波篠山に向かう途中の電車で、窓の外の自然を見ながら、パソコンでカタカタと作業する恋人のすぐ横で考えていた。

 

心の傷を負うとは、どういうことなのだろうか。それは、電車の窓に降り注ぐ雨とどう違うのか。それは、人間の深淵と関わっている予感がする。

 

死を恐れている。終わりを恐れている。しかし、死を恐れるとは別の生き方もある。死の「なかに」自ら飛び込む、がそれである。死を表象として対象化するのではなく。

 

死のなかに飛び込んだ先に、感じたもの。それが雨であり、涙であった。そして、飛び込んだ先にあった死は、もしかしたら案外優しく、それこそ陽の光のようなものなのかもしれない。

 

限りある時間のなかで、死んだ恋人の親友はなにを訴えていたのか。それは、決して小難しい机上の空論ではなく、きっと、もっとずっと根源的なものだ。

 

なにか大きな勘違いをしていた。功利主義者のように、快・不快の損得計算をしていた。不快のなかにこそなにか根源的なものにつながっているということを、知識としては知っていたが、意識としては知らなかった。

 

人の生き様は、その人が自らの傷と、そして連綿と続く一人ひとりの運命と、どのように向き合うかにかかっているのかもしれない。