午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

苦しみを見つめ直す

何事も、直視するということは、とても辛いことだ。

 

最近は、学会準備等で忙しかった。もっとも、都会にいると、いつだって忙しい。そして季節感がない。今、わたしは、この文章を書くことをひどくためらっている。自分の核心に触れたくないからだ。核心、それは、心の傷である。


8月頭に今書いている博士論文の中間報告会があった。8月下旬には、今書いている小説の原稿を、お金を払ってプロの作家さんに見てもらった(申し込めば、誰でも見てもらえる)。そこで驚いたのは、社会学の博士論文と、小説という、一見異なるものについて、ほとんど同じことを言われたことだ。両者ともに、「バラバラで、全体を貫くストーリーが欠けている」と言われた。それは、今の自分そのものだった。博論の中間報告で、リスペクトしている先生に、「この論文を通して、あなたは何を考えたいの?」と問われた。わたしは答えることができなかった。博論と小説、ともに厳しい、しかし同一の指摘を受けて、自分がまったく「考える」ということをしていなかったことに気がついた。それに気がついたとき、愕然とした。考えているふりをしていたものの、その実、まったくなにも考えていなかったのだ、と。

 

そこで、まずは「考える」ことについての本を数冊読んだ。そして、最初に考えようと思った問いは、「なぜ『わたしは』専門用語を使ってしまうのか」、である。この問いを考え始めたきっかけは、自分の苦しみについて、わたしはよく恋人に訴えるのだが、あるとき彼女に、「(自分の苦しみを説明するときに)専門用語を使わないほうがいいよ」と言われたことだ。わたしは自分の苦しみを他人に説明するときに、「愛着障害」や「安全基地」などどこかで聞きかじった専門用語を使う傾向があった。

 

今までであれば、その理由として「フロイトの言う『知性化』という防衛機制を使っているからだ」と答えただろう。今までであればそれで満足して思考停止し、それ以上考えることはなかった。専門用語を使ってしまう状態である。しかし、よく考えれば、この答えは、あくまで一般論であり、わたし自身のことについて、何も説明していない。では、そうすることで、わたしはどんな利益を得ているのか。わたしはそのことについて考えた。

 

問いをもう少し明確にする。「なぜ『わたしは』専門用語を使ってしまうのか」。言い換えれば、「自分固有の苦しみを、専門用語に置き換えることは、自分にとってどういう機能を果たすのか」と再定義した。そもそも専門用語はどんな機能を持っているのだろうか。それは、固有のものから、固有の文脈を切り捨てて、一般的な文脈に置き換える機能である。そうすることで、異なるものを、同一に扱うということが可能になる。では、固有の文脈を剥がして一般的な文脈に置き換えることは、わたしにとって、どういうことを意味するのか。それは、自分固有の苦しみから目を背け、自分を機械のように客体化することを意味する。そして、「患者」という客体となった自分は、「(医者やある種の心理士のような)介入者」としての自分と分裂する。それは、自分自身の苦しみを人の苦しみと同じ文脈に置き、自分だけが感じているという事実、まさにそれゆえに、自分が責任を持って対処しなければならないという事実を隠蔽する機能を持つ。では、自分固有の苦しみとはなにか。それは、他人とは共有できない、他人とは切断された、孤独のなかにある苦しみだ。生まれたのは自分、生きているのも自分、死ぬのも自分。自分以外の、誰も対処してくれない。自分が感じるのと同じようには、他人は痛みを感じない。自分が痛みを感じたまさにその瞬間に、他人が痛みを感じることはない。その「固有性」こそが本質であるのにもかかわらず、専門用語はそれを覆い隠す。そして、自分が自分の中の他人と同じ部分に同化することで(厳密には具体的な自分と抽象的な観念に過ぎない共通部分とは同化できず、断絶がある)、「患者」という領域に自分の固有性を押し込める。しかし、それももとは自分の一部である以上、常に苦しみは続いていく。あるいは、無視した分、より酷くなっていく。

 

自分を客体化する。なぜそうするのか。それは、自分が自分であり、他人や集団とは異なった存在であるという、根源的な恐怖から逃れるためだ。では、根源的な恐怖とはどこから来るのだろうか?それは、自分が他人と切断されることからくる。

 

他の国は知らないが、日本には、同調圧力というものがある。小中学生のころ、体育の授業、そのなかでも「集団行動」が苦手だった。「運動神経」が悪いので、他の人と同じように動けなかったからだ。わたしは、他人に合わせないとどういう酷い目に遭うか、学校その他の組織を通じて痛いほど学んでいた。同調圧力にはいじめがつきものだ。いじめが同調圧力を高めることに資するからだ。いじめが、その集団の結束を強くする。その集団の「ルール」から外れた人をいじめることで、「ルール」に服従させるのである。しかし、その「ルール」は、いじめを積極的に行う側に有利で、いじめられている側を抑圧するものになっている。そして、いじめを成り立たせるのは、いじめている人ではなく、それを見て見ぬふりをしている人である。見て見ぬふりをする人は、自分がいじめられたくないから見て見ぬふりをしているという消極的な側面を持つだけにとどまらない。きっと内心、いじめている側と同化して、いじめを楽しんでいる。みんなの前で、みんなの視線にさらされながらいじめられていることを見られること、それこそそがいじめられている側にとって最大の暴力であり、そのことによって、いじめは集団に承認される。そして、いじめられた側は、人と異なることをしてはいけないと学習する。一方で、閉鎖的な組織に属していれば、多くの人が傍観者を含めたいじめの加害者になったこともあるだろう。人と違うことでつけられた傷を癒すために、今度は人と同じことをしている人が許せないようになり、いじめる側にまわる、あるいはまわろうと努力するようになるのである。そうした存在のあり方こそが、自分が目をそらしていたものだった。

 

大人になって、生活不安を抱えることにより、より一層いじめや排除への恐怖が強まった。自分一人で生きていくことに、強い不安を抱えているのである。恐怖は思考を歪める。みんなと一緒の方が楽だ。人間の尊厳を貫くことよりも、組織、あるいは力のある存在から弾かれて、否定され、生活できなくなることへの恐怖によって、まわりに合わせてしまう。それ自体は、仕方がないことだとしても、自分の責任として逃げるか、向き合うかは、わたしの選択の範疇にあるはずだ。それこそが、人生の責任を取るということではないのだろうか。しかし、そうした恐怖を払拭するために、先ほどの専門用語を使うときに述べたように、自分のなかの一般的な部分を「社会」と同一化させ、固有の部分を抑圧する。わたしは自分の尊厳というものを、自分の生活の招かざる客のように扱っている。そうしているあいだに、自分の尊厳は傷つき、自分は自分の痛みから疎外される。果てしなく傷つき、しかもそんな加害者、少なくとも共犯者である自分自身に怒りを抱えている。あまりにも無様で、向き合いたくない。そのかわり、それを外界に投影して、「他者」の抽象的な集合体である社会や政治については饒舌に語る。あるいは、「自分の考え(実際のところなにも考えていない。所詮ヤフーニュースのコメント欄やTwitter(X)の引き写しにすぎない)」とやらに閉じこもって耽溺する。そんな「自分」について喚き散らす一方で、あのときこのときというような具体的な自分と具体的な他者の関係性については、まったく目を向けず、逃げ出してしまっている。「こう見られたい」という理想の状況を「正解」として、それに近かったかどうかで思い悩んで、自分と他者が対等にコミュニケーションをとることから逃げている。なぜなら、そんな自分の状態がみっともなくて、とてもではないが肯定できないからだ。

 

先ほどの体育の話に戻る。体育の授業、あるいは学校で受けた傷、それが今でも続いていて、「細い」とか「運動神経が悪い」ことにひどい傷つきを持ち、現在もそんな地獄のような状況が再演されている。しかし、「体育」という傷があるにしても、冷静に考えれば、今でも体育をしているわけではない。それはその場に踏みとどまって居続ければわかることだろうが、わたしは他人に怯えるあまり、そこから逃げ出して、過去の経験のなかに閉じこもってしまう。それほどまでにわたしの傷は深い。しかし、傷を直視しなければ、都合のいい幻想のなかで閉鎖的に生きるしかなくなってしまう。自由を縛るのは、他でもない、自分だ。そして、それは恐怖に媒介されている。恐怖を感じるあまり、自分で自分を縛ってしまう。

 

自分の苦しみは、自分が引き受けるしかない。それを理不尽だと思う。許せないと思う。割を食っていると思う。だが本当にそうか?他者とつながる方法はないのか?

 

他者とつながる方法、それはルールである。そのルールとは、いじめのときに述べたような不公平なものではない。そんなものをわたしはルールと呼びたくない。自分にも、他者にも、ひとしく適用されるルール、それこそが、わたしと他者をつなぐものになりうる。ルールを持つことで、人は人とコミュニケーションをすることができる。それは、万人が納得するものさしであれば言うことはないだろうが、少なくとも、その第一歩として、自分のなかで、自分と他人を等しく裁くルールが必要だろう。そうしなければ、自分が自分を信用することができない。

 

ルールを持つこと。それが自分を開く第一歩であり、孤独の克服へ向かう道なのかもしれない。今のわたしは、それを持っていない。他人のルールが自分のルールという状態になってしまっている。どうやってそのルールを獲得するか。それをこれから考えていきたい。