午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

いじめについて

先ほど「まなざしの地獄」という記事を書いたが、その続きで、わたし自身がなぜ他人の否定的な「まなざし」を恐れるかをさらに考えた。

 

今まで「超自我」を仮想敵のように考えてきたが、超自我にはもちろん、よい機能もある。わたし自身を集団の掟破りによる制裁から身を守る機能である。彼らから制裁される前に、自身の行為が集団から制裁されるかどうかを前もって自己判断しているのである。問題は、超自我の存在そのものではなく、内側の自己検閲が過剰で苛烈であり、自我をいじめ抜いて抑圧している過剰適応の状態にあるということである。

 

では、「世間」から否定的なまなざしを受けることによって、わたしは何を恐れているのか?否定的なまなざしは敵意と結びつき、それは実力行使としての暴力と結びついている。では、どういう種類の暴力を特におそれているのか。ひとつは、「村八分」である。わたしは、いじめられることを恐れているのである。そして、学校のいじめの1番本質的な部分は、暴力ではなく、「否認」、つまり、見えるものを見えないと思い込むことである。いじめられている対象のみならず、傍観者にとっては自分自身の意志ですら、いじめられたくないがゆえに見えないことにする。これこそが日本型いじめの本質である。

 

ここで面白いのは、わたし自身は学校や職場で実際にいじめられた経験が無いということである。それでもなぜ、それを過剰に恐れるのか?そのわかりやすい理由は、学校でいじめを見てしまった、あるいは傍観するしかなかったという事実である。合唱コンクールの練習中、みんなで輪になって、クラス一丸となって、ひとりの男の子をいじめていた。そんなことが罷り通ることが許されないと思う。しかしながら、そのときわたしが感じたのは、耐え難いような不快感と同時に、クラスの不思議な一体感であった。わたしはその不快感を否認するしかなかった。自分がこのクラスとかいう塊の、次の標的になりたくなかったからである。わたしは、中学一年生になってすぐに、とある子をいじめから庇ったことがある。しかし、そのことにより、標的は自分に変わった。それ以来、わたしは口をつぐむようになった。

 

自分はいじめられてなくても、次にいじめられるのは自分かもしれない。そう思ったことのある人は多いのでは無いだろうか。そうしたいじめへの身体化された恐怖が、自らを監視する超自我を強化した。だが、学校でいじめがあったことは、根本的な原因ではなく、あくまで媒介要因だ。なぜ、いじめられた人は、絶望的な気分になるのだろう?それはおそらく、そうしたいじめが日本中に深く存在するから、寄る辺がないと感じるからだと思う(だからこそ、いじめられている人に手を差し伸べることが大事だ。しかしそれはむつかしい。なぜなら、そうしたら次にいじめられるのは自分かもしれないと思うからだ)。

 

学校でいじめをなくす。それは不可能だ。なぜなら、学校こそが、いじめの仕方を教えているからである。「こうすれば、我々はいじめを見て見ぬ振りしますよ」と教師が生徒に身体を通してメタメッセージを送っているのだ。それによって、生徒たちは、法や制度などのフォーマルな権力体系をかいくぐって、インフォーマルにいじめるという技法を身につける。これは皮肉だが、一考に値する考え方だと思う。いじめを認識するのは難しい。なぜなら、それは見たく無いものであり、見たく無いというのは先生も同じだからだ。なぜ先生もそうなのか?それは、いじめこそが、我々日本社会を成り立たせている根本的な第一原理であり、先生もそのいじめの社会に属している一個人だからである。我々の社会は、いじめなしでは成り立たない。学校は、そうした我々の根本にあるいじめ文化を再生産している場であるにすぎない。我々は、いじめの恐怖を幼い時から空気のように感じ、蓄積し、恐怖の感情を身体化し続けている。そしてそのルーツは、日本農村社会における村八分であると考える。

 

なぜ村八分が存在するのか?それは、集合財を供給するためである。もともと法律も裁判もない世界では、てんでばらばらに個人が存在し、各個人が自身の利益を最大化するだけの場合、集合財は供給されず、利害は対立し、まとまらず、フリーライダーが続発し、田植えなどの共同作業などもできないだろう。だから、ルールを犯した(と認定された)人物を爪弾きにしてスケープゴートにすることにより、残りのものをルールに従わせることで、共同作業や治安の維持を行う。そのための機能として、村八分が存在したのだと思われる。これは、集団を維持するためのひとつの知恵である。しかし、唯一の方法ではない。

 

村八分への恐怖は、都市に移住した我々のなかにも確実に根を張っている。我々は常に監視され、否定的なまなざしで見られることを恐れ、本音を押し殺して、空気のように生きている。それが、日本人の公共の場でのおとなしさ、静けさにつながっているのだろう。

 

いじめが日本の「正統な」支配的文化であることは、「いじめられる方がわるい」「いじめられた方に問題がある」と本気で信じる人が一定数存在すること、本来被害者であるはずのいじめられた側もそれを恥じて隠そうとしたり、自分を責めたりすることが示していると思われる。日本には、明文化されたルールと、暗黙のルールが2種類存在する。前者は法律、後者はインフォーマルな村社会の掟である。法体系におけるルールは個人の権利を尊重することであるが、村社会におけるルールとははなにか?それは、「長いものに巻かれる」という掟、そして、「自分を主張しないこと」、「暗黙のルールを理解しない、あるいは無視する」ことである。出る杭=「長いものに巻かれる」という暗黙のルールを破壊すること、他人と異なるということ、そしてKYは犯罪なのである。

 

法体系における個人の保護というルールは、成員全員に平等に適応される一方で、村社会のルールはそうではない。成員には明確な権力関係が存在する。その良い面は、強い人が弱い人を保護するというパターナリズムだ。そうした封建的な権力関係は、弱者を保護する一方で、弱者は息を殺して、強者に忖度して生きていかなければならない。ついでに言えば、こうした封建的な村の寄合のような政党が、自民党なのである。地方の首長は、自民党の議員に陳情する。これはパターナリズムの一例だ。日本的いじめ社会の一例である自民党では、者が「ない」と言えば、「ある」はずのものも「ない」ことになる。そしてそれは否認という防衛機制のもとで行われるため、隠蔽している本人たちですら気がつかない。このことからも、「(日本型の)いじめ」が日本文化の根底にあることがわかるだろう。

 

現代の「村」の範囲は、1番大きくとって、日本列島というところだろう。ほかにも、会社村や学校村などの閉鎖的な集団のなかにある。いじめは、そうした村社会の一丁目一番地である。それゆえ、先生のなかにもそれは内面化されており、いじめ問題に十分に対処することができないのだろう。我々が最初に出会ういじめが、学校だいうだけである。いじめが発覚した学校は、今度は社会によって苛烈にいじめられる。だから、学校はいじめを否認する。

 

現代社会のいじめは、往々にしてバッシングの形を取る。なにか「事件」が起こると、人々のまなざしの総量を金と交換して儲けているマスコミが世間様に告げ口する。世間様は正義感を振りかざし、「社会的制裁」のもと、感情的にいじめを行う。

 

以上見てきたように、いじめをなくすとしたら、それは社会の一部分を改めるだけでは到底ダメで、我々の社会そのものを止めるということになる。我々が大好きな「日本文化」、それをやめることが必要である。しかしそれは、少なくとも現時点ではあまり現実的では無い。

 

だが、幸いにして、現代は、昔の村よりは開放性や流動性が高い。逃げようと思えば、できなくはない。わたしは、その事実をもって、これらの問題と向き合っていきたいと思う。