午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

自粛警察

昨日に引き続き、いろいろと考えが浮かんだのでメモ程度に記しておく。

 

ここ数年、同じ夢を何度も見ていた。散弾銃のような長い銃をもった兵士のような男たちに、つねに銃を向けられて追いかけ回される、あるいは監視されている夢だ。この夢は、わたしが抱えている生きづらさを象徴しているように思える。少しでも間違えれば、撃たれかねない。そんな不安を抱えている。自分は、わけもわからずに逃げ回っている。その夢の意味が今理解できた。

 

昨日書いたブログ記事で、善悪二元論の話をしていたが、この思考方法は現代の日本人に思った以上に広く備わっているようである。それを思ったのは、最近Twitterかなにかで奥田民生が泥酔してステージ上に登ったことを批判されたというニュースをみたときだ。泥酔、芸能人の不倫、マスクをしていない人が異常に叩かれる。魔女狩りさながらである。笑えるのは、国の機関である法務省が、いきすぎた「自粛」にホームページで注意喚起していることだ。つまり、国の思惑ではなく、われら日本国民が自分達で好き好んでやっていることだということだ。

 

芸能人を叩いたりマスクしていない人を叩く理由は、何か実害を被った法律を破ったとかそういうことではなく、道徳的に「悪」だからである。そして、一昔前よりも徹底して、(なぜかSNS上でよく見られるが)この社会から「悪」を排除しようとする傾向がものすごく強く、みんなが優等生的な発言しかできなくなっている。開国以前の日本では、性についてはおおらかだったそうで、明治政府はそれを取り締まるのを苦労したらしい。それから100年以上たち、わたしたちの倫理観は内側からキリスト教的になったようだ。

 

労働についても、働いているわたしの母親の口癖は「働かざるもの食うべからず」だった。これはキリスト教プロテスタンティズムの勤労道徳そのものではないか(この言葉のもとが新約聖書だったことは今知った)。怠惰や貧乏、生活保護受給者、ニートを「悪」とする資本主義社会はいまだキリスト的である。

 

しかも、現代ではさらにたちがわるいことに、以前は死後に訪れた「最後の審判」が、寿命が伸びたことにより生きたまま、退職後に襲ってくる。「老後2000万円問題」などとして、老後に生きたまま地獄へ落とされることをおそれ、人々は脅迫的に労働にしがみつく。あるいは、社会の流動化・不安定化によりいつでも失業と言う名の地獄へ落とされることを恐れ、追い立てられるように自己啓発スキルアップに邁進する。わたしたちは、最後の審判をする「神」を常に恐れているのだ。

 

まさか、仏教や神道に親しむ日本がここまでキリスト教の影響下にあるとはまったく考えていなかった。想像だが、戦後の高度成長を経て日本が経済的に繁栄するにつれ、そうした勤労道徳は強化され(「24時間働けますか」の兵隊のようなサラリーマン)、その影(不健康、怠惰な人間への迫害)もまた大きくなっていったのだろう。

 

ディベートで、同調圧力に抵抗する役割を置く場合、その人を「悪魔の代弁者」と呼ぶらしいが、まさに善悪二元論の状態では、一信教的神の外部にあるものはサタンなのである。そして悪魔呼ばわりされて抑圧された影は巨大になり、ある日猟奇的な連続殺人事件などとして突如沸騰して世間を騒がせる。それは、この社会に覆いかぶさり、人々を監視し、生きづらくする「神」に対する「影」の反作用である。

 

やはりわたしたちは(というわたしは)、サタンを遠ざけるのではなく、彼の言い分も意聞くべきであり、それを通して自らも調和へと向かっていくしかないと考えている。つまり、わたしがアクティブイマジネーションで真に立ち向かう相手は、化け物ではなく、素知らぬ顔でそうした状況を作り出している一神教的な神の方なのである。