午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

能動的想像

前回のブログで言及したユングの『元型論』をさっそく取り寄せ、読解を進めている。分厚い大著だが、元型的な力がすぐそこに差し迫っているので、すらすらと読むことができる。読むと言うより、体験するといった感覚のほうが近いか。10年前に大学図書館で見たユングの『赤の書』のように、彼の心の神殿の螺旋階段を、松明をもちながら下っていくようである。読んでいるうちに、意識と無意識のあいだくらいの感覚に沈み込む。さながら目覚めながら夢をみているようだ。そして、本を読んでいる間中、自分がアクティブイマジネーションで見た「化け物」がそばで同居していた。

 

わたしは、しばらくこの元型的な「悪魔」とともに時間を過ごすことにした。「悪魔」と闘うわけでもなく、なんとかするわけでもなく、なにもせず、共に時間を過ごす。悪魔を客体として認識するのではなく、わたしとおなじような主体として経験する。それは口で言うほど簡単なものではない。やはり得体の知れない存在であることには代わりがないので、昨日の深夜などは恐怖で思わず恋人に電話をした。死のイメージで押しつぶされそうになったからである。象徴的な死のイメージは、新しい自分へのシグナルということを頭では知っていたが、にわかに信じ難いほどそれはリアルだった。

 

ところで、最近のニュースによれば、村から4000万円あまりを間違って振り込まれた若者が、返還のために役場職員と銀行へ入っている途中、ほんの一瞬の隙に逃亡したらしい。あるいは、アメリカで看守の女性が囚人の男に恋をして、逃走劇をしたあげく、捕まる前に自分の頭を撃って死んだらしい。これらは、元型的な力が働いている好例だとわたしは考える。元型に接したときのヌミノースは、退屈な日常の合理的思考など一瞬で吹き飛ばすのだろう。こうした例の多くは、ユング河合隼雄いわく、破滅に向かい、ろくな結果をもたらさないらしい。河合隼雄は、こうしたことを象徴のレベルで行わせることがカウンセラーの仕事だと言っている。ユングも、元型的な力を意識化することが重要だと述べている。

 

元型的な力を意識できずに直接作用されることは、言ってみればそれらの力が後ろから作用する状態だろう。背後に回られたというわけである。元型的な力は、火のようなものだと思う。うまく使えば大変便利で、文明は飛躍的に発展したが、使い方を誤れば火の海になりかねない。

 

しばらくは、(自分が書いた小説の登場人物のように)悪魔と能動的、意識的に共存することを続けたい。