午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

他人の罪を背負うとき(2)

もう深夜12時半をまわっているが、数時間前に書いたブログの記事から、さらに考えが浮かんできたのでメモとして書き記す。

 

hayatokat.hatenablog.com

 

先ほど、自分が相手にしているのは普遍的無意識としての「影」だと考えた。河合隼雄は、「影」が個人のものからユングのいう元型的なものに近づくほど、それは「悪そのもの」に限りなく接近する、と述べていた。わたしが行ったアクティブ・イマジネーションは、教会が舞台だった。アクティブ・イマジネーションの出発点となる写真を選びに本屋に行き、直感で教会の写真集を選んだわけだが、その意味も今となってはわかる。わたしが相手にしている「影」は、キリスト教的な「悪」の影だからである。

 

わたしはキリスト教信者ではないし、旧約聖書新約聖書も読んだことすらない。しかしながら、ただこの現代日本に生きているだけで、西欧文明を基盤とする日々の文明生活、あるいはサブカルチャーから無意識的にキリスト教の物語の影響を受けていると考えている。そして、わたしが思うに、キリスト教は善と悪をはっきりと分けすぎて、悪を丸ごと抑圧したために、その影もまた大きくなっている(マザーテレサの抱えていた闇や、遠藤周作が苦悩していた信仰への疑問など)。そしてその影に、わたしも脅かされているというわけである。そうしたキリスト教善悪二元論から脱却しようともがいていたのは、ニーチェであり、他ならぬユングであった。ユングの父親は牧師だったそうだ。ユングは考えを深めるにつれて東洋の陰陽に惹かれていった。陰と陽は、善悪二元論とは異なり、どちらも相補的なものである。

 

ニーチェユングら偉大な思想家の苦闘から100年を経てもなお、わたしという一個人の身の上に同じような影が降りかかってくると言うことは、この問題はいまだ(社会システムの上では)解決されていないということだろう(努力=善、怠惰=悪、あるいは自立=善、依存=悪などの善悪二元論的思考が強く作動している)。しかし、この強大な敵との闘いは知的な刺激に満ちており、わくわくすらしている。

 

というわけでわたしは、次のステージへと進み、より強大な相手と対決するため、ゲームで装備をアップデートすることよろしく、河合隼雄からの孫引きを超えてユングの『元型論』やニーチェの著作にあたってみたいと考えている。

 

ところで、わたしがユングニーチェに興味を持ったのは、実は最近ではなく、20歳のときであった。ユングのことは、あることがきっかけで河合隼雄の息子の河合俊雄先生の講演を複数回聴く機会があったために知った。そのときは、河合隼雄が誰なのかも知らなかったが、(記憶が正しければ)フロイトの無意識の話やアンドレ・ブルトン率いるシュルレアリスムに惹かれていた時期だったので、ユングについても漠然と興味をもった。そして、大学図書館で河合俊雄先生らによって翻訳されたばかりの大判のユングの『赤の書』を見て、人間の心の深さというものに戦慄した記憶がある。自分が20歳のときに自分との対話のためにつけていた日記帳は、自分の生きる意味を見つけるために行ったヨーロッパ旅行の途中、アンネの家で買った赤い日記帳だった。わたしはこれを赤の書と重ね合わせていた。たぶんそのときからユングに興味を抱いていたと思う。そしてそれは、自分が20歳のときはじめて書いた小説にも、死との対話として反映されている。

 

そう考えれば、わたしが今ユング派の先生の分析を受けているのも偶然ではないと思われる(最初は、カウンセリングルームに電話したときたまたまユング派の先生につながっただけだと思っており、まどろっこしいのでむしろCBTを受けたいとすら思っていた。ただ一方で、いつか自分が20歳のときに書いた小説をカウンセラーの先生に見てもらいたいとは漠然と考えていた)。

 

もう24時をすぎているので、このあたりでやめにして寝ることにする。