午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

29

昨日、29歳になった。今日は、やることが多いはずなのだが、あまりにも眠いのでなにもしていない。仏教の本を少し読んだり、考え事をしたりしながら過ごしていた。

 

昨日は恋人と一緒に、犬鳴山を訪れ、カフェで地鶏を使った焼き肉を食べ、七宝瀧寺を参り、車の中でケーキを食べ、旅館で温泉と会席料理を食べた。そして、夜、手紙をもらった。本当に最高の一日だった。

 

最近、内面世界が動いている。昨日もその延長で、彼女とともに一日の旅に出る前から、その旅を通した精神世界の冒険が予感されていた。昼ごはんを食べたレストランの名前は「空(くう)」だった。七宝瀧寺の滝で、行者橋という赤い橋の向こう側で、白装束の行者たちが般若心経を唱えながら滝行をしていた。彼らが唱えていた般若心経は「空」の思想を凝縮した経典である。

 

「空」は大乗仏教の中核的な思想である。と偉そうに言ってみたが、わたしはそれについてなにも知らない。そこで思い出したのは、河合隼雄経由で知った「十牛図」だった。河合隼雄ユング派と仏教の関連を述べた講義[1]のなかで、「十牛図」を紹介している。

 

十牛図は、真の自己(牛に例えられている)をもとめる人が、悟りを経ていく過程を10枚の絵で示したものである。

 

biz.trans-suite.jp

 

上のリンク先で図を見てもらうとわかるが、一旦真理を得た自分は、8番目の図で空っぽになり、そこからまた一般社会に還っていく。今読み始めた空の仏教思想の歴史をたどった本[2]によると、インドから中国や日本に渡った大乗仏教の思想は、一旦自己否定したあと、またすべてを取り戻す、という作業を重視しているらしい。

 

この、言ってみれば、一度彼岸を経験してからネジを巻直すという作業は、山にこもったあとに市井に戻り超人思想を説くニーチェの『ツァラトゥストラ』、物語の中盤で一旦主人公の男女二人が事故で死んだ場面を挟むことで終わりを提示したあと、二人の物語を逆再生して「生」を逆説的に提示するミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』、細かい筋は忘れたが、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』もそんなような話だったように思う。わたしはどうやら、このタイプの物語を好むらしい。あるいは、物語というものはすべて、死を通過してから再生するものなのかもしれない。実のところ、わたし自身も象徴的な意味での死が迫ってきていることを感じていた。

 

無事、犬鳴山での冒険を終えたあと、誕生日の最後の時間、24時ごろに恋人にもらった手紙には、「伝えきれないくらい愛している」と書かれていた。この言葉を、書かれた言葉の背後にある大きな「言葉」を、わたしはこれ以上にない歓びとともに受け取った。そのとき、愛は関係性の問題であり、愛することと愛されることは、同じものの別の側面を表したのに過ぎないことをはじめて理解したのであった。

 

引用文献

[1]

 

[2]