午後のまどろみ

らくがき未満 / less than sketches

前向きな諦め

大阪に引っ越してから2週間ほどが経った。体調はあまりよくない。指導教員の先生や研究室とのやり取りなどは、MicrosoftのTeamsというアプリを介してリモートで行っている。少し余裕が出てきたからか、単にストレスが蓄積して自律神経がいつも以上に乱れているのか、今日は特に体調が悪く、漢方(補中益気湯や五苓散)に頼りきりである。

 

一般に、文系のドクターはかなり大変だ。自分も例外ではない。博士号は5年ほどかかると言われたし、その間にはまた貧乏暮らしを覚悟しなければならない。研究(者)には、自律(自分を律する)することが求められる。これから大変なようだ。

 

しかし思い返せば、今までもいろいろな夜があった。住んでいる場所も、名古屋に始まり、東京、北の果ての島、そして大阪である。社会に適応しようともがき、うまくいかないと嘆きながらもなんとか生き延びてきた。明日はダメかもしれないが、少なくとも今日はまだ大丈夫だった。そう思って自炊した料理を食べるのである。

 

学部時代に同じバンドを組んでいた友達が、フランスで修士号を取得し、博士課程に進学予定である。彼女は本当は今頃もう進学しているはずだったが、新型コロナの件で今日本にいる。彼女は私以上に運命に振り回されている(ほんとよくやっていると思う。まあ私より研究者としては数百倍優秀なので心配はしていないが)。そんな彼女と電話しているとよく、「それって前言ってた『前向きな諦め』だよね」と言われる。「そんなこと言ったっけ?」とあまり覚えていないのだが、たぶんどこかで言ったのだろう。

 

「前向きな諦め」。この中庸な思想のルーツは私が自然の厳しい礼文島時代に学んだことである。都会の消費社会では、「諦めさせない」仕組みがある。婚活や妊活がその極端な例である。結婚や出産を諦めさせないことで、飯を食っている連中が大勢いるのである。そんな奴らは、「あなたがもっと頑張ればうまくいく」と唯心論的なことを言って手数料を巻き上げ続ける。客観的に見て、うまく行かない確率が99.9%でも、残り0.1%を強調し、無駄な幻想を抱かせ続ける。そして飯を食うのだ。そうして騙された人はだらだらとのめり込み、ドツボにハマっていくのである。これらは極端な例であるにしても、消費社会では欲望が際限なく掻き立てられ、何でも選択できるような幻想にまみれている。しかし、これらは幻想であり、一歩都会から(「観光」ではなくほんとうの意味で)外へ出れば消滅する。その点、島の生活では厳しい自然を相手にしており、やりたいけれども諦めざるを得ないことが幾度もあった。

 

前向きな諦め、とは言い得て妙だなと我ながら思う。もしくはその友人が私の考えを端的にまとめてフレーズ化したのかもしれない。自分が生まれて今ここにいること、これまでしてきたこと、自分の(理想とはかけ離れた)特質など、「直したい(治したいではなく)」と思いたくなるものはたくさんある。しかしそれは無理な話であることが、生きていくなかでわかってきた。自分がこういう人間である、というのは受け入れざるを得ない。自分が今ここにいることも、新型コロナが蔓延していることも。それが「諦め」だ。それは全然オリジナルな思想ではなく、仏教でずっと言われてきたことだ。

 

ただ、あくまで前向きに諦めるのである。「諦める」というのは現代ではネガティブな意味で使われるので、「前向きな」というポジティブな単語と並ぶと一見奇妙に思われる。しかしそこがポイントでもある。欲望を冷却するのは難しいし、自分自身言うほどできていないのだが、諦めることで人は自由になる。あくまで前向きに諦めるのである。そうすることで、次の光が見えてくるように思う。