午後のまどろみ

らくがき未満 / less than sketches

鬱屈

引っ越して3週間、部屋は整ったが、自分の心は乱れている。というか、どちらかといえば堕落している。#Stay Homeしすぎて、鬱屈の極みである。昨日は昼下がりにビールを飲んで、ベッドで寝ていた。一昨日は確か散歩をして、いい感じのパン屋を見つけたので、65円のバターロールを買って家に帰ってコーヒーと一緒に食べた。

 

今日は朝起きて、天気は良いものの鬱屈としていたのでモーツァルトピアノソナタKV331を練習した。学部時代はモーツァルトは嫌いだった。天才で底なしに明るくて、みんなから愛されている感じに嫉妬していたのだと思う。実際、ウィーンに一人旅したとき、モーツァルトのウィーン市民からの愛され方はものすごいと感じた。そのときはウィーンで根暗っぽいハイドンベートーヴェンの家の跡地で交響曲の録音を聴いて、うんうん、苦悩だなこれはと頷いていたのを思い出す。しかしモーツァルトだけは特別扱いなようであった。

 

そんなモーツァルト、今は結構好きである。特に今日のような晴れた日の朝、寝起きでなにか弾きたいと思うのときにはぴったりだ(断っておくが、別に私はピアノがうまいわけではない)。その後少し外を走ってみたが、気分は晴れない。そこで、そういえば最近ずっとパジャマだったと思い、特に必要もないのだが着替えてみた。今はコーヒーを飲んでいる。お供にするお菓子を、わざわざ皿に盛り付けてみることで気分の転換を図った。

 

ネットのニュースを見れば、暗いもの、嘆かわしいものばかりである。外出自粛などと叫ばれている一方で、外で働かざるを得ない人たちがいる。自分だっていつそうなるかわからない。命は平等じゃないのかという憤りのような、ため息のようなものが出る。昔から、飢饉などで人がバタバタと死ぬことが幾度となく繰り返されてきた。政府だって、(それを政府自身が公言することは論外だと思うが)みなを救えるわけではない。

 

ニュースでコールセンターの非正規の人たちが3密の極みである状況にも関わらず休ませてもらえない、という状況を知って暗い気持ちになった。そこで思ったのだが、こういうケースは、実は経済的・制度的・技術的な問題ではなくて差別や偏見の問題なのではないだろうか。「こいつらはろくでもないやつらだから」という馬鹿にした態度が、搾取につながっているという構造があまりに多い気がする。搾取される方は、搾取する方ではなく自分自身を責めるように社会によって仕組まれている。そんな優勝劣敗を正当化するイデオロギーが蔓延している。結局、制度を運用するのも人なので、こうした構造は無くならないだろう。

 

何らかのレッテルをはられた人は、レッテルを貼られたがゆえに反発する。するとレッテルを貼った方は「やはり頭がおかしいやつだった」と自分のレッテルに対する信念を強化する。実はそんなインタラクティブなプロセスが至るところで展開され、差別の構造が強化されるのではないだろうか。そしてその構造は、これを書いている他ならない私自身にも内面化されてしまっている。無意識に特定の人々を差別している自分自身に気がつくのである。なので、「いじめをやめよう」とかいう以前に自分自身が加害者にならないことを気をつけようと思う。

 

心の豊かな社会にならないだろうか。そんなことを、コーヒーを飲みながら無責任な場所から願っている。