午後のまどろみ

らくがき未満 / less than sketches

服喪追悼

GWが過ぎて、日常生活に戻った。

 

火曜日は大学で非常勤があるので、近くの恋人の家に泊まる。彼女は火曜日が休みなので、一緒にご飯を食べたりする。水曜日、彼女を仕事に送り出してから、わたしも自分の家に帰る。

 

そんな新生活がはじまって1ヶ月ほどだ。ニトリから届いたダイニングテーブルにテーブルクロスをひき、ふたりで向き合ってご飯を食べる。

 

水曜日、彼女を見送り、彼女の家で独りになった時、わたしは考える。幼い頃からの未来予測に、この光景は入っていただろうか?自分は、小さい頃から昨日よりも今日、今日よりも明日、と、ひとりで努力していくような、そんな単線的な未来を予測していた。幼い頃は、地域で一番の高校に入った後、東大に入って科学者、あるいは外交官なってニューヨークに行く、なんてことを思っていた。しかし、今目の前にある光景は、それとは似ても似つかない。今のわたしは月に5万円程度しか収入がないが、彼女がそのことを責めるそぶりは一切ない。きっと、彼女は、わたしが「優秀」であることをまったく期待していないのだろう。

 

そのことにたいして、わたしは、はじめて自由の果実を食べた奴隷のように、戸惑いを隠せない。たくさんの本を読み、難しい概念を山ほど知っているくせに、目の前の生活について説明する言葉を、持っていなかった。自分自身の人生について、まったく新しい定義が必要なようだった。

 

布団の上に寝転がっていると、両親と弟の家族ラインが動いている。通知は切っているそのライングループを見る。

 

家族関係、いろいろなことがあった。20歳のころ、離婚騒動があり、その外傷経験が強烈だったため意識できなかったが、成人したころは、なにも出来事がなかったとしても、もともと家族との分離がはじまる時期だったのだと思う。「家族」という幸福な幻想に守られ、荒い世の中を、幼いころから大過なく生きることができた。その幻想の膜が急激に破られてしまったので、それは心的外傷として経験された。だが、新しく獲得したダイニングテーブルを前にして、幸福な家族の残滴は、その役割を終えたのだと思う。

 

自分自身を真に大切にするという生き方を、わたしは恋人の生き方を見ることで教えてもらっている。彼女は、なにかを決める時、必ずわたしの意向を聞く。そのひとつひとつの積み重ねで、わたしは、わたしになっていく。

 

 

【2024.5.9追記】ブログ名を、「午後の雨」から「午後のまどろみ」に変更。