午後のまどろみ

らくがき未満 / less than sketches

コーヒー

休日の朝、久しぶりに目覚めが良かった。カーテンの隙間から日差しがこぼれる。いつも通り、丁寧に淹れたコーヒーと近所のおいしいパン屋で買ったトーストを食べる。少し気だるい感じで、コーヒーを飲むのが心地よい。ゆっくり、とりとめのない考えごとに耽る。

 

昨晩、友人と電話で飲んでいたとき、「選択」の話になった(というか、最近自分は「選択」という行為に関心があるのだと思った)。島を出て、消費社会で一人暮らしするようになったからかもしれない。

 

最近大阪に引っ越したのだが、一人暮らしをするのは礼文島以来である。そこでついつい、島の生活と都会の生活を比較してしまうのだ。都会は無論、消費社会である。消費社会あるいは資本主義(の消費面)における本質は、選択である。物件選びに始まって、家電や家具、はてはスニーカーに至るまで、あらゆるものを選択肢の中から選ぶことができる。なにか苦痛があっても、金を払い別の商品を選択することで取り除くことができる。我慢をする前に、苦痛を物理的に取り除くことが(金があれば)可能なのだ。だから、そういった状態に置かれている我々は、「選択」という行為を当たり前のものとして日々行っている。選択は、自由につながるとされている。

 

選択の反対にあるのが受容であると思われる。島では、選択肢は限られているか、もしくは選びようがないことが多かった。これは一見不自由なことに思われるし、実際不自由だったのだが、選択肢をいちいち考えなくてよいしそれに悩まされなくていいというメリットがある。加えて選択するという行為は、他の選択肢を選択しなかったということであるため、常に後悔する可能性を含んでいる。

 

なんでこんなことを考えるのかというと、常に私の心の片隅にあるひとつの疑問、すなわち「なぜ生きるのか」という問いの答えにつながる可能性があると考えたためである。最近、「なぜ生きるのか」という疑問の意味が(今更ながら)わかった。それは言い換えれば、「こんなに苦痛な状態で、自死を選ばない理由はなにか」ということである。つまり、生きることを選択する(効用を増大させるという意味の)合理的な理由はなにか、ということである。

 

残念ながら、我々は自殺という行為をすることができる。そのため、自らの生は常に自殺しなかったという選択の結果であると捉えることができてしまう。自らの生を、スニーカーを買うか買わないかと同じ次元に落とし込んでしまうのだ。また我々は同時に、理由の偏執狂といえるような状態に置かれている。何をするにも常に理由を問われる。あらゆる行為には法的な責任を問われる。その延長で、自らが生きる理由が無いことを看過できないのだ。つまり、「なぜ生きるのか」という私自身への問いかけは、合理的選択と責任という現代社会の仕組みが大きく作用している。

 

しかしながら、よく考えれば私は生まれたことを選んでいない。自分自身の身体も(ゲームのアバターのように)選んでいないし、まわりの家族関係も、この地球の(時として絶望的に感じる)人間社会に生きることも選んでいない。社会変動も自分はほとんどコントロールできない。そのときどきで、翻弄されながらも与えられた条件の中で、選択することがせいぜいなところである。

 

そんな状況であるので、穏当な結論かもしれないが、前ブログに書いた「前向きな諦め」というフレーズにたどり着くのである。こうあること、あるいはこうなってしまったことそのものはもうどうしようもない。諦めるしか無い。しかし、徹頭徹尾諦めるのではなく、せめて前向きに、やれることをやって死のうぜ、ということである。そこではじめて、自分の「意志」というものが顔を出す余地がある。どう在るかは選べないにしても、どう在りたいと欲するかということは、自分の意志の範疇に属するように思われる。自分の在り方ひとつとっても、自分がいい人であるか悪い人であるかということそれ自体は選べないが、いい人でありたいと欲することはできるのだ*1

 

生きること自体には別に高尚な意味はない。うるさいからという理不尽な理由で人間に殺されたハエや蚊の一生に高尚な意味がないのだとしたら、人間だって同じである。綺麗に死にたいと思っていても、現実はトイレで大便をしている最中に地震で死ぬかもしれない。また未来はわからないのだから、先ほど述べた利得を増大させるという意味での生きる合理的理由があるかは、未来の期待値がわからない限りはわからない。つまり予測不能であるということである。

 

生きたほうがいい、とは私は言わない。もはや恢復の見込みがないほどに身体や精神を破壊され、苦痛に塗れるしか無い人に対して「それでも生きていたほうがいい」とは言えない。ただ、自分自身に対しては、「生きる意味とはなにか」という問いをやめようとは言いたい。その問いにはもう答えが出てしまっている。「わからない」というのがそれである。それは今のところわからないということではなくて、結論として「わからない」、つまり決定不能な命題であるということだ。それを受け入れるしかない。

 

生きるか死ぬかの二択を常に偏執狂のように考え続けるのではなく(それによって死ぬという選択肢を論理的に追いやろうとするのではなく)、常に決定不能な命題として生とともに付き合っていく、あるいは死ぬという可能性を「気にしない」という態度が良いと思う。それが生への執着(しゅうじゃく)を離れることにつながると今は考えている。

*1:そういう点で、私の考えというのは仏教と近代の中庸な折衷案と言えるのかもしれない。