午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

飛び越える

修論プラス博士課程の入学準備も、佳境に入ってきた。双方とも残り1ヶ月程度である。後者は先延ばしを繰り返してなかなか取り組めていなかったが、修論は安定して取り組めている。このまま行けば、少なくとも論文を提出することはできるだろう(先週のドラフト提出の段階で、数人が留年した)。口頭試問は、野となれ山となれ、という心持ちである。

 

今週は、一区切りつける意味で久方ぶりにひとりで温泉旅行をした。単純に、山の空気がきれいであった。いかに普段都会というものに精神を汚染されていたのかがわかった。リフレッシュするということを除けば目的がない小旅行であったが、これは本当に久々のことであった。

 

温泉に入り、近くの陶器のギャラリーと、併設されたカフェで時間をつぶした。それしかしていない。しかし精神に与えるプラスの効果はなかなか大きくて、目論見通りであった。人工的な区切りだったが、旅行の一日前までのことは過去になった。

 

ひさびさに、自分を見つめ直した。誕生日が近かったからというのもある。20歳のころは、30歳は遠い先の話だったが、今ではもう3年程度しかない。良くも悪くも安定した名古屋生活はもう2年である。

 

今日、弟の部屋に置いてあった岡本太郎の本をぱらぱらとめくった。フロイトの後期の理論、生への欲動(エロス)と死への欲動(タナトス)、について言及されていた。この言葉は20歳以来忘れていたものだった。20歳のとき、自分も太郎と同じように(かどうかはわからないが)その2つの一見矛盾した理屈に目を開かれた気がしたものだ。そして連鎖的に、いろいろなことを思い出した。

 

一旦、自分を捨てなければならない。この数年でこびりついた料簡を、全部殺してしまわなければならない。そうしなければ、突破することはできない。自分は、何も知らないのだ。自分の知っている理屈や生み出した過去の方法論に対するフェティシズムが、自分の思考や行為をがんじがらめにしてしまう。そこから先に未来はない。閉じるのではなく、開いていくこと。瞬間に賭けると生命が輝く。まったく、岡本太郎の言うとおりだ。自分の能力や才能なんて、わからない。わからないというのは、「まだ眠っている本当の才能がある」というような反語的な幻想のことではない。才能のあるなしはもはや問題ではない気がする。才能とは、本質的に自分の意志でコントロールできない、はみ出した生命力のことであるのだから。

 

まあ違うかもしれないが、とにかくも頑張っていこうと思う。