午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

感性だけは

引っ越しの準備をしている。いらないものを捨てたり、欲しい物を買おうとしたりすると、自然と今までの自分の生き方、今の自分の在り方、そして将来どう生きたいか等々と向き合わざるを得なくなる。何を所有するのかは自分を表すし、何を所有しないかも同じく自分を表す。ココ・シャネルは人を判断するときに、その人のお金の使い方を見るのだと言っていたらしい。「良いもの」を選ぶには、必ずしも膨大な金は必要ないし(美術品やプレタポルテなどは別だが)、たくさんのものは必要ない。「コト消費」なる消費社会のシステムが所詮実態のない「妄想」に過ぎないと喝破すれば、そんなにお金はいらないだろう。そう思うと、一気に目が覚めたような感じになる。

 

ところで、「自分に才能がない」というのが最近の悩みだったが、「才能」とはその用法の本質的に相対的なものであることに気がついた。例えば、「あなたには料理の才能がある」というのは、「あなたには他の人と比べて料理の上達が早い、上手である」、さらには「あなたは料理を極めればシェフ(=社会的な職業)になれるだろう」というような意味を含んでいる。逆にいくら一通り料理が出来ても、毎日ご飯を作る母親(あるいは父親)に(普通は)そんなことは言わないだろう。

 

趣味として捉えられるようなもの(スポーツ・芸術・研究など)はみんなやりたがるので供給過多になるため、職業(=社会的な役割を担うこと)とするためには卓越化(他人より相対的に圧倒的に優れていること)が必要になる。ただあくまでそれは相対的なものである。私は料理があまり上手ではないが、もし社会の他の成員のほとんどが私より圧倒的に料理スキルの低い人間であったなら、私は才能があるということになる。しかし繰り返すが、それはあくまで相対的なものである。

 

以上を踏まえれば、「私には(研究や創作の)才能がないのではないか」という疑念に対する答えは、「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」である。これは決定不能という意味ではなく、少なくとも現時点ではまだわからないが最終的にはどちらかに収束する、という意味である。そして「才能がない(なかった)」というのは、社会の他のメンバー(競合)より能力がなかった、という意味であって、(詭弁にうつるかもしれないが)私に絶対的な能力がないというわけではない。つまり、私に才能がなかったとしても、私の存在そのものが否定されるわけではない。そう思うと、才能があったらなお良いが、なくても悲観することはないのだと思えるようになった。岡本太郎は「才能なんてないほうがいい」というようなことを言っていたが、そう考えると腑に落ちる。

 

では逆に、絶対的なものはなにか。岡本太郎はよく「自分に絶対感を持て」というようなことを言うが、私にはそれがわからなかった。しかし、引っ越しの準備をするうちに、自分にとってのそれが感性(センス)であるということを了解した。

 

コーヒー豆や本などの持ち物は、私にとって本質的なものではない。私がすべてを捨てたとして、残るのは私の感性である。鍾乳洞のように長い年月をかけて形成された私の感性には、様々な記憶、触れた人やもの、考えたこと、行動したこと、しなかったことなどすべてが含まれている。それは私そのものに近い。私が持っている唯一の絶対的財産、それは感性である。目の前のコーヒーがイルガチェフェ産だろうがインスタントコーヒーだろうが、自分が良いと思ったものが良いのだ。そのイルガチェフェ産とかなんとかは言ってみれば妄想である。残ったのは目の前にある茶色い物体と、それを口に含んだときの感覚だけだ。あとは妄想に過ぎない。そして幸いなことに、私は私の感性を愛しているし、理解者だと思っている。

 

私の虚無に対抗できるのは、感性だけなのだ。