目を閉じると、我々の前に現れる問題とは何か。
そのうちのひとつ、おそらく多くの人が一度は考えたことがある問題、それは自分が生きる意味とは何か?という問いかけである。
実際、街を歩けば「生きる意味を教えます」という類の文言を掲げる宗教団体を見かける。
その問いの裏側には、自分が生きる意味などないのではないか、あるいは自分が生きる意味を感じていないという背景が潜んでいる。
「自分が生きる意味」とは大別して、(1)「自分が生きることによって社会(あるいは家族等、自分を含んだ/含んでいない複数の人間)にどのような意味がもたらされるのか?」という社会視点での問い、(2)「自分が生きることによって自分自身にどのような意味があるのか?」という自分視点での問いに分けられるだろう。
このうち、根本的、根源的な問いかけは(2)の方であると思われる。なぜなら、自分の存在を支えている「意味」を論証するために、自分を使わなければならないのは、不可能であるかあるいはトートロジー(A=Aなど)に行き着くのかのどちらかであるためだ。
以下では、(2)の場合について述べる。
私自身、学部時代に答えの出ない問いかけに陥ってしまい、精神的に参ってしまった時期があった。しかし私は、小説を書き上げることにより、「我感じる、故に我あり」という確信の上に、「生きるとは表現することである」という命題を打ち立て、自身の内側で強い確信を持つに至った。確信の光によって、虚無から抜け出したのである。
また、極北の離島生活を経て都会に戻った現在、「生きる意味」などはさして重要ではないようにも思える。
我々は、空のボトルを持って生まれてきた存在である。ボトルは世界の内側と外側を明確に区分するが、中身は空洞である。
その中身に何を入れるのかは個人の最高の自由の範疇に属する。
絶え間ない離島の厳しい大嵐、理性をまったく失った情事、その中に何を入れるのかはその人自身による。そして中身はいつのまにか消失し、残るのは「空」であり「無」であると私は思う。
大学の近くに一風変わった仏像がある。その下には例によってこう書かれている。
涅槃静寂
私は仏教徒あるいは仏教学者ではないので、自由な解釈を楽しむことにする。
なかなか味のある言葉であると思う。