ちょうど1ヶ月ぶりに学会で東京を訪れた。主観的には、前に礼文島・東京に行ってから2週間くらいしか経っていないように思える。
今、自分は正念場にある。修士論文の締切が近い。博士課程の院試も受けなければならない。そのために大学院・指導教員を探さなければならない。博士用の研究計画書も作らなければならない。私の今の研究室は修論の審査が異様に厳しいため、落ちてしまうこともあり得る。先日の修論中間発表ではいろいろと指摘されてしまった。ということで心の余裕はまったくない。
幸い、7倍近い倍率であった学振DC1(博士課程の資金面を援助する制度)は面接免除で通ったのだが、それが逆に猛烈なプレッシャーになっている。なんだか(今から見返せば)わけのわからない壮大なことばかりを語って通った申請書を見返して、自分は本当にこんな研究能力を持ち、国からの資金提供に値する人間なのか、と自問自答してしまう。ちなみに自分が研究能力のない「詐欺師」であるのではないかという心境は、図書館で借りている『博士号のとり方』のなか(p.175)で、「インポスターシンドローム」「詐欺師症候群」と名付けられて、皆経験するものであるらしいことがわかって少し落ち着いた。
申請書を書いていた時点では「自分に投資しろ、自分にはそれだけの研究能力があるのだから」と無垢に何も疑わず信じ込んでいたが、いざ通ってしまうととんでもなく臆病で卑屈で自分を責めるだけの自分に気がついてがっかりしている。
自分は「理解されたい」と思ってきた。だがそれは「理解されない存在でありたい」という欲求の裏返しでしかない。自分の深層心理にとって一番怖いのは、理解されてしまう「その程度でしかない」ことであるのだろう。
学会で、自分の指導教員候補の人の発表を聞いてきた。正直、今いる研究室と内容が結構違うので大丈夫なのかと不安になった。例えるなら、スペイン語の研究室にいるなかで自分はちょっと英語ができると自負していたが、英語の研究室を少し覗いたらバリバリの英語ネイティブが議論していて恥ずかしくなる、そんな構図である。自分は本当に英語がわかるのか、このままスペイン語を極めたほうがいいのではないかと不安になる(これは例え)。
自分はスペイン語研究室のなかの英語ではなくて、英語の研究室で英語をやりたい。だが、ではどんな研究をしたいのか?と問われるとまたわからなくなってきてしまった。そもそも博士課程に進んでいいのか?という一筋の疑惑すら残る。しかし、それをしなければ別に他にやりたいこともやるべきこともないのだから、きっとそうするのだろうが。
今回の東京でも、何人かの友達にあったのだが、彼ら彼女らに救われた気がする。「理解されない」と思っているのに、自分のことをわかってくれる(と自分は認識している)という、もう8年くらいの付き合いの友達に恵まれているのは不思議である。
(引用文献)
博士号のとり方[第6版]―学生と指導教員のための実践ハンドブック―
- 作者: E・M・フィリップス,D・S・ピュー,角谷快彦
- 出版社/メーカー: 名古屋大学出版会
- 発売日: 2018/10/17
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (1件) を見る