午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

「美学への招待」を受けてみる

時間があったので、今朝Kindle佐々木健一氏の『美学への招待』という本を手にとって、先ほど読了した。

 

美学への招待 増補版 (中公新書)

美学への招待 増補版 (中公新書)

 

 

学問としての「美学」、というのは私を含むほとんどの人にとって非常に縁遠いものである。私も、名前だけは知っていたものの「芸術の哲学」なんて、小難しいものに小難しいものを掛け合わせた印象だったし、学生時代ぱらぱらとめくったカントの著作はわけがわからなかった。しかしふと、この本を手にとってみた。ただの興味からだったが、もう少しちゃんとした理由もあった気がする。

 

今朝、私は退屈を感じてどこかに出かけようと思った。ちょうど、あいちトリエンナーレがやっているのでのぞいてみようかという気にもなった。会場のHPを見た。しかし、出かける代わりに私はこの本を手にとった。

 

その理由は、ひとつにはトリエンナーレで展示されているような作品がどうしても受けいれられなかったからである(見ずに批判もよくないので、後日じっくりと見て向き合ってみようとは思っている)。もっといえば、カタカナ語の「アート」を語る人たちが、どうにも胡散臭く感じていた。ちなみに本書では私のような素人が現代アートではなく古典を好む傾向にあることが指摘されていて、その理由までは考察していなかったものの、現代に特異な現象であるとしていた。

 

私が今まで見たことのある「アート」は、(気を悪くする人がいれば申し訳ないが)がらくたを並べたゴミみたいな感じだった。それで、そのゴミに何かもっともらしい解釈をつけて作者が薄っぺらい思想を開陳している。その軽薄さがなんとも軽蔑したい感じだった。そして極め付けには、「わからないのがアートだ」と開き直っているようにさえ思えた。それは一部のファンが支持するだけのひねくれたサブカルチャーのように思えた。私がそう思った理由は3つ考えられる。1つめは、「現代アート」自体がそうである可能性。2つめは、私が見たことある作品が「現代アート」の作品群のうちレベルの低いものであった可能性。そして3つめは、私が理解していない(しようとしていない)可能性。

 

本書は、その「がらくた」のパイオニアであるデュシャンの「泉」(便器)をめぐって話が展開(というかいろんな論点の紹介)される。しかし素人の私が思うのは、デュシャンの「泉」がすごすぎて、現代アートはそこで始まってそして終わったのではないか、ということである。究極的にはあの「がらくた」以後のがらくたには全部ただのがらくたのようにも思える。

 

まあそれは脇に置くとして、私が本書を読む前日からなぜ私が現代アートを受け入れられないのか、というのが漠然とした問いとして頭の奥底に浮かびつつあったのだが、その暫定的な答えも前日に浮かんでいて、「美しくないからだ」、と思っていた。本書でも最後に美学における「美」の復権、というようなことを唱えていて、何か私が思ったこととつながるような気もした。そして本書の目論見通り、私は「美」とは何か、あるいは「美しいとはなにか」と漠然と考え始めた。私が考えたことはおそらく先行研究で言われ尽くしていることだろうが、私は別に美学者になりたいわけではないので、覚書程度に書いておく。

 

「美しい」と聞いて私が一番最初に思い浮かべるのが、礼文島の夕日である。私はおよそ2年間、礼文島の水平線と日没、無限に広がる星空をみてきた。それは「美しい」のお手本のようなものだった。そうした自然美が「美しい」の根底にあると私は思う。自然美と、芸術美を分けて考えるべきではない考える。そしてその「美しい」の根底には、非人間的なもの、超越的な存在を感じることがある。また美しい、というのは直観(intuition)であり、神的な存在と個が直接対峙する感覚であると思う。美しさを感じることはただ享楽的なものではなく、おそらくもっと根本的で深遠なものである。それが美しい理由は、それが美しいからであり、そこに人は沈黙するしかないのではないか。

 

おそらく自分は(そして他の多くの人々は)芸術にもそういったある意味ステレオタイプな美しさを求めるのだろう。だから、作者の意図を長々と説明した「がらくた」よりも、作者不明になるくらい「個性」を解体した先に見える、神がかった「美」が見たい。それこそが、(現代アート界隈の自己満足ではなく)私たちのような普通の人の生活を潤してくれるのだろう。

 

ただここで付言したいのは、「美しい」と「正しい」はまったく別次元の話であると思うことである。「美しい」けれども「正しくない」、「正しい」けれども「美しくない」、というのは多分にありえる。例えば美しい理論というのは内的一貫性があり、証明がエレガントで、それ自体に美的価値があるとすら思えるものだが、それは現実を上手く捉えていることをまったく保証しない。そこに気をつける必要があると思う。

 

私にとって「美しい」と感じる感覚は理論構築のための羅針盤であり、「正しい」か「正しくないか」は私の外にある現実(実証)が審判を下すのだ。