午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

秋の気配

コロナ禍下でも、確実に季節は進んでいる。35度を超える厳しい夏の暑さのなかでも、微かに秋の気配を感じる。夏から秋に移り変わりつつある。

 

秋の風から、微かな死の気配が感じられる。私はそれが好きだ。日没の長い影を見るときも、似たような感覚になる。それを「過剰に」吸収し、感じているせいか、昨日から精神が極めて不調だ。ベッドの上で、底なしの虚無感を覚えるのだ。昨日は身体を埋め尽くす恐怖と不安から、一日中女の子と電話をつないでいた(さすがに、ここまでのことはめったにしない)。

 

学部のときに読んだ『人はなぜ戦争するのか エロスとタナトス』という本によれば、後期のフロイト第一次世界大戦の殺戮の衝撃から、「生への欲動」に加え、「死への欲動」という概念を考えたそうだ。そしてこの2日間、自分のなかにもこの「死への欲動」と名付けうる欲求が存在し、少しも消えていないことを改めて認識した。生きることへの苦痛から、セックスの途中、馬乗りになった女の子に心のなかで「殺してくれ」と思ってしまうことがごくたまにある(もちろん、それは苦痛から逃れる程度のイメージに過ぎず、本当に殺してほしいわけではない)。幸い、自分の中の「死」はあくまで無害なシンボルあるいはイメージに過ぎず、生々しい実態は伴っていない。

 

20歳のとき、自分は「死」と真正面から対決した。しかし、その後、自分なりの長い内省を経てもなお、「生」の足場をコンクリートなどで固める試みは不可能であることを悟った。「生」の足場は「死」という深く暗い穴のなかで曖昧になっている。穴の空いた風呂桶を水で満たすことはできないように、「生」の根拠付けは不可能な試みであると今は考えている。結局、自分が目指すことができるのは、根拠付けではなく和解であり、「生」と「死」の自然な調和であるに過ぎない。それは、「死(への欲求)」との自然な共存を、その生の最後の日まで望むということである。そして、列にならんで順番を待つのである。それでも極稀に、「生」の経験のあまりの苦痛に、そこから安易に逃れることを願ってしまうときがある。

 

秋の気配は、私の空っぽさを、改めて意識させる。底なし沼のような虚無感から逃れ、実存を確認する手段として、自分はつい酒とかセックスとかの強い刺激により解放する方法に頼りたくなる(幸いなことに、薬の乱用などということはしたことがない。こう見えても、昔から健康志向なのだ。毎日必ず同じ時間に起きて、コーヒーを淹れて、体操をして、考え事をして、寝る。それが私だ)。言葉は揮発するアルコールのように、口にした瞬間蒸発する。「愛情」とか「友情」というものが実は陽炎のように実態のないものだと知っているものだから、人々はいちいちプレゼントなど形に見えるものにして確認しようと躍起になる。

 

少し、考えすぎなようだ。女の子はそんな私に、身体を動かすことをすすめてくる。夜はもし涼しかったら、少し走ろうかな。