午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

運命

秋が深まり、その先の冬がうっすらと予感されるにつれて、気分が揺らぐ。秋の夜に、生命や死といった究極的なことを考えてしまう。それは、ネガティブとも、「落ちている」とも少し違う。しかし、感受性の底なし沼のようなものに嵌ってしまう。

 

礼文島から名古屋に帰って、この1年半ほどずっと一人暮らしの祖母と毎週水曜日、駅で会っている。彼女は毎日することがなく、朝から駅の図書館で本を読み、構内の喫茶店で時間をつぶす毎日である。

 

彼女は、会うたび私に孤独を訴えた。彼女は、社会の狭間に落ちていた。何かしらの悪意がそうさせたのではなく、ちょうど隙間に落っこちたのだ。娘の家族、息子の家族もおり、十分な年金もあるにもかかわらず。周りの人はみな、彼女に会うことを先延ばしにしている。そしておそらく、死んだ後に「もっと会えばよかった」などというのだろう。おそらく、祖母のような隙間に落ちている人はこの社会に何千、何万といるはずだ。

 

祖母の例だけではない。どれだけの人が、向き合うことを先延ばしにしているのだろう?おそらく私自身、向き合えていない人たちがたくさんいる。自分自身にさえも。

 

命は限りある。どれだけの人が、この言葉の意味を本当に理解しているだろう?一体、どれほど先延ばしにすれば気がつくのだろう?

 

もちろん、私もわかっている。世の中の大勢の人が私のように小さなことにいちいちひっかかったりつまずいたりして転んでいたら、社会が回らない。私だって、円滑に役割を遂行するため普段は目をつむることのほうが多い。もっとも、完全に向き合っているか全くそうでないかの両極端でもないだろう。すべての人が、その中間にいるはずだ。それに向き合っても向き合わなくても等しく死ぬのだから、問題はないのかもしれない。

 

ただ、せめて周りの人には気づいてほしい。自分自身や、自分に親しい人たちの心の声を、魂の叫びを。せめて生きているうちに。