午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

曖昧

最近、椎名林檎宇多田ヒカルがコラボ曲を出した。この二人、どちらも鬼才なのは間違いないが、その違いが面白いと思う。以下は数年前にリリースされた宇多田ヒカルの曲『真夏の通り雨』である。

 

 

 

二人とも、孤独や感じたことを歌っているのには相違ない。しかし私には、宇多田ヒカルのほうがより根本的な、「どうしようもない」ものを歌っているように思える。椎名林檎やその他のアーティストが人間関係などの「関係性」を歌っているのに対して、宇多田ヒカルからはより存在論的な、知的で冷たい孤独を感じる。椎名林檎などの孤独感は埋められる可能性があるのに対して、宇多田ヒカルのそれは原理的にそうなので、埋めるということができない。受け入れるのでも拒否するのでもなく、「隣に置いておく」くらいしかできないものである。

 

昨日本屋にふらりと立ち寄ると、『ミヤザキワールド』と題された新刊が出ていた。アメリカの日本学者が宮崎駿の作品を評したものらしく、少し立ち読みした。私が知る数少ない宮崎駿作品の中でも傑作だと思うのは、もののけ姫と漫画版のナウシカなのだが、その評価は彼女も同じであるようだった*1。両作品とも、先程の宇多田ヒカルと同じように「ありのまま」が描かれている。善とか悪とかに二分できない、グレーゾーン。それがきちんと描かれている。翻って世の中、それを自覚できる場面がどれほどあるのか。

 

「見たくないもの」。それが巧妙に覆い隠されている場面がある。たとえば婚活スタッフは、見込みのない求婚者に「あなたが頑張れば夢は必ず叶いますよ」といっていつまでもお金を巻き上げる。度が過ぎた不妊治療も同じだ(もちろん、全部がそうとは言わないが)。希望をもたせる甘い言葉と、「もう君には無理だと思うから、諦めたら?」という言葉。果たしてどちらがよいのだろうか*2

 

あるいは逆に、「覆い隠されたもの」が声をあげて成立した「弱者」「マイノリティ」というカテゴリーは、そう区切ってしまった瞬間、そうでない分類に入ると糾弾された人々から反発を食らう。声を上げるのが大事なのは間違いないが、それでは余計にギクシャクしてしまう。果たして、そんなに簡単に「弱者」と「そうでない人」などと極端に分類できるのだろうか。どちらにせよ、それらは「ありのまま」からは程遠い。

 

自分が生きていること。あるいは、生きてしまっていること。それを「ありのまま」に直視することがいかに苦痛に満ちたものであるのか。

 

「ありのまま」。それはときに、残酷である。「通り雨」のように、ただ過ぎ去るのを待つしかない。そんなときは、ココアを飲もう。

 

ミヤザキワールド‐宮崎駿の闇と光‐

ミヤザキワールド‐宮崎駿の闇と光‐

 

 

*1:訳者による解説よりhttps://honz.jp/articles/-/45421

*2:私はどちらがいいという意見は持っていない。ただ純粋に疑問に思うだけである。