午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

転回

ここ数日、かねてよりの修論の提出締切の多大なプレッシャーに加えて、最近の状況変化により家でのストレスもあり爆発しそうだった。昨日などは眠れなくなり、自分では対処しきれないほどのストレス故に向精神薬に手を出そうとしたものの、昔もらったものをちびちび服薬していたのがちょうどなくなってしまっていた。薬を手に入れようとメンタルクリニックを探したが、行こうとしたところは紹介状がないと受診できないとわかった。まさに八方塞がりの状態だった。

 

今日、久々に研究室に行って、留学生チューターの仕事をこなした。その後同期と話したところ、他の同期がもう3人ほどM2での卒業を諦め、M3になるらしいという話を聞いて、ますますストレスを感じた。私のところの研究室は異常に修論審査が厳しいのである。審査に落ちた場合、せっかく勝ち取った学振の権利トータル何百万円ほがパーになる。加えて、初稿提出がもうあと2週間ほどに迫ってきているとくる。さらに、博士課程の入試の準備もしなければならない...こんな状況で、誰がストレスを抱えないだろうか?もう、本当に爆発寸前だった。

 

キャンパスから出て駅までの道、私は歌を口ずさんだ。そうしたら、次々と歌が口からでてきた。洋楽を下手な発音で歌っていた。そして、電車に乗って駅について、いつものように地下街のカルディーで買いもしないのに商品を見て「これいいな」とか考えていると、あることに気がついた。そういえば、過去自分はどん底に陥ったことが何度かあるが、そこから抜け出したとき、とくにセオリーなどはなかったな、と。強いて言えば、勝手にどん底に落ちて知らぬ間に過ぎ去っていたのである。

 

そこから、私は連鎖的に礼文島時代に体験した嵐について思い出した。嵐は、いつ来るとかどのくらいの大きさだとか大まかなことはわかっているものの、それ自体は過ぎ去るまで耐えるしかない。嵐はどうすることもできないのだ。それをコントロールしようとする人なんていない。

 

ところが都会に戻ってきて、何でもコントロールできるような幻想を抱くように戻ってしまった。これは、近代という時代に内在化されているものだ。先程チューターとして留学生に社会学を教えていたときみたGiddens(2017)の"Essential Concepts in Sociology"には、ウェーバーが言った「合理化」という言葉について

A  long-term social process in which traditional ideas and beliefs are replaced by methodical rules and procedures and formal, means-to-ends thinking. 

と書かれている。このように、ざっくりいえばいつしか「目的」-「手段」の枠組みですべてを捉えてしまうようになるのが合理化だ。そしていつしか私自身、「修論を書き上げる」「大学院に受かる」「Fundingを受ける」という「目的」を達成するよう、自分自身を「手段」として強迫神経症的に追い詰めていたのだ。

 

他人をコントロールすることはできない、とはよくいうが、私が気がついたのはそれに加えて、自分はコントロールできない、ということである。一見、自分は自分が所有しているというのはデカルト以来当たり前のことのように捉えられてきた。「自己管理」が社会人で重要なこととされ、それができない人はだめな人とされる。目的に自分の身体の形を合わせ、歪んだ部分は薬で抑える*1。しかし、私から言わせれば、自分をコントロールできるというのが幻想であり、逆に自分のストレスはそれへの自分自身からの反逆である。自分をコントロールできるなどというのはおこがましい。自分は、それ自体がひとつの宇宙であり、神秘である。

 

自分は自分を所有できない。また今まで、自分はコップであり、そこにストレスが溜まって溢れそうになっていると考えていたが、それも疑問に思う。自分はコップではなく、海である(べきである)。海になること、それは呼吸を整えることである。理想は、自分の内側と外側を自然に調和させることである。

 

また、変に小さな既得権益(学振)を持っているがゆえに、過度のプレッシャーに苛まれているのだとも思った。そんなもの、捨てればいい。修論審査落ちようが全部ダメになろうが、裸一貫からまたやりなおせばいい。生きる意志さえあれば、何でもできる。意志がなくても、そこにとどまり続ければなんとかなる。会社をやめたとき一度肩書も何もかも全部捨てたが、大切なのは捨てるだけの覚悟である。覚悟とは、どんな理不尽を受けてもそれと一体化するということである。

 

それらに気がつくと、こころなしか嵐は半分くらいは消えてしまって楽になった。

*1:私は投薬治療を否定しているわけではない。