午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

心のかすり傷

明後日に修士論文の提出期限が迫っており、まだやらなければならない作業が残されているにもかかわらず、私は例によって誘惑に負けて夜にビールなどという悪魔の飲み物を飲んでいる。おまけに、修論の原稿はしまって、ブログなどというものを書き始めてしまった。ふと、思いついて書き留めておきたいことがあったためである。

 

日本最北の島にいたころ、私は子供たちの面倒を見る仕事をしていた。彼らは体育館の中で元気に暴れまわっていた。そんなある日、男の子が「先生〜」といってこちらへ来た。何事かと思えば、怪我をして血が出ているではないか。私はびっくりして、慌てふためき、絆創膏を探した。血などというものをほとんど見たことがなく、大ごとだと思ったからである。

 

すると、側にいた島の肝っ玉母ちゃんのようなスタッフが、彼の傷をひととおりみてから「大したことないでしょ。大丈夫だから」と冷静に言った。そして「もし痛みが続いたらまた言いに来なさい」とした。泣きそうだった男の子はそう言われると、「そうか」と納得した顔をして、また元気に子どもたちの遊びの輪に戻っていった。

 

たったこれだけのエピソードだが、このやりとりは私の中でずっと深く残っていた。怪我をした男の子。大ごとだと思い、慌てて絆創膏を探した私。慌てなかった島の肝っ玉母ちゃん。絆創膏を貼らず、回復した男の子。これらはすべて、私達が置かれている現代という時代状況をよく表しているように思える。

 

最近でこそ「レジリエンス」と言われるようになってきたが、依然としてあらゆる「リスク」をコントロールして排除しようとする傾向は根強い。遊んでいて怪我をするのは本来当たり前で、驚いている私に私は驚くべきであったのだが、私が驚く程度に「怪我をする」という機会が子どもたち(私たち)から奪われているように感じる。

 

本来、人間というものは怪我をしても治るものであり、絆創膏を貼る必要はほとんどない。しかし、「細菌が入る」などあらゆる理由で絆創膏が傷口に貼られる。すると、人間本来の回復力が弱まってしまう。

 

これは肉体的な傷のみならず、心の傷であっても同じだと思われる。最近はとくに、本来傷つくなど当たり前なのに、過剰に「治療」が行われる風潮にある。そして、そうした人々が集まって「傷をなめ合う」。「あ〜痛かったよね。絆創膏を貼ろうね」、と。しかし、一向に傷は治らない。そこから抜け出せない。なぜか。それは、人間本来の回復力、あるいは「強さ」が奪われるからである。そしてある日突然、死んでしまったりするのである。

 

なぜ突然死んでしまうのか。私が思うに、自分のことを自分で抱えすぎてしまうためである。「自分」と「他人」に明確な線を引くのは近代の特徴であるが、みんなその二分法に影響されすぎて苦しくなってはいないだろうか。自分のまわりにせっせと塹壕を彫り、上から降ってくる「自己責任」に押しつぶされるという構図だ。しかしそれは、私からみたらまったくのナンセンスである。

 

そもそも、自分と他人の境界は人々が思っているほど明確ではない。DSM-Vには「境界性パーソナリティ障害」なる項目があり、それは自分と他人の区別ができないという「人格障害」であるらしいが、まったく無意味な区分だと思う*1

 

だから、もう少し他人に迷惑をかけたほうが良いのではないか。迷惑をかけられる方も、誰にでもとは言わないが、少しだけでも相手の迷惑を受け入れる心を持ったほうがよいのではないだろうか。それは人のためだけではなく、必ず自分に返ってくる。

 

何が言いたいのかというと、まずは自分の自己回復力を信じろということである。そのためには風通しを良くしなければならない。抱え込んではいけない。誰かに愚痴を言うことである。ただ、愚痴を言う相手は自分のことを70%くらい肯定してくれる相手が理想である。100%は怖い。そんなのは友人ではなく、悪意のある人間か、気持ちの悪い信者かのどちらかだろう。

 

他にも書きたいことはいろいろあるが、今日はここまでにしておく。面倒なことは明日やる。それが私のモットーである。

*1:そもそも、「病気」というものは実体として存在しない。心臓と呼ばれている身体の一部分が特定のメカニズムにより身体症状を患っている状態が「心臓病」と呼ばれているのであって、「心臓病」という病気が現実に存在しているわけではない。それは仮説であって、理論である。「こういうふうに考えるとうまく現象を説明できる」というだけである。さらに、心臓病のような身体的な病気であればまだしも、心の病気というのは目に見えないため、仮説や理論は余計に疑わしいものになる。診断の背景となる医学や心理学の理論は近代文明のものの見方に多分に引っ張られており、疑わしい。「診断」もそれに則って行われるためそう見えてしまうし、さらにやっかいなことには患者自身もDSMのような診断基準を信じ込んでしまうことで、理論が現実化してしまうのである。