午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

自問自答

今朝名古屋を出て大阪へ向かい、夜に帰ってきた。博士課程の研究室訪問のためだ。最近は、修士課程入学時の勢いはどこへ行ったのやら、深刻な自信喪失に陥っていたので、向こうの先生から口ごもる私に対して「こいつなにやりたいんだ」と内心思われたとしても仕方がない。先生より誰より、私自身が一番自分がなにをやりたいのかがわからない。

 

上記は主観的な研究室訪問の感想だが、客観的には先生は私の研究報告を以前学会で聞いてくださっていたこともあり、私の分析スキルについてはかなり評価してくださった。この業界は人材不足なので、私のようなデータ分析をかじった程度の者でも重宝される。というか、いつも実力以上に評価されてしまう。まあ良く言えば、「芸は身を助ける」ということか。

 

とにかく科研費を持っている先生なので、海外の統計やネットワーク分析のサマースクールに派遣できるし資金援助もできるとか、半年前の自分が聞いたら興奮して飛びつきそうな話をたくさんしていただいた。しかし、今の自分はそもそもこの世界でやっていけるのか本当に不安で、なんなら辞める一歩手前にいるくらいである。そもそも、おととい出した修士論文の審査が通るかどうかもかなり心配している(実際、審査員のひとりが落とすことで有名な先生なのである)。

 

ところで、オポチュニティの神の話を知っているだろうか。オポチュニティの神とは、顔は長い髪で覆われているため暗くてまったく見えないが、後ろはつるっぱげなのだそうである。初めてこの話を知ったとき、私はうまく思い浮かべることができなかかったが、今はおぼろげながらイメージはできる。オポチュニティの神は、向こうがこちらへやってくるときには黒くて見えないが、去ってしまったあとの後ろ姿はつるっぱげで光っているためすぐにわかる。だが、つかもうとしたときにはつるつるしているので掴むことはできない。

 

私は、比較的オポチュニティに恵まれてきた。しかし一度もそれをものにしたことがない。今回もそうだ。いつも、私だけが怖気づいている。今まで、自分がうまくいかないことをあらゆるもののせいにしてきた。他人、社会、云々。そしてそれ自体は間違っていないと思うのだが、オポチュニティがこちらに来たときというのは、自分自身の責任からついに言い逃れできなくなったときでもあるのだ。そして、今まで自分は常に耐えきれなくなって逃亡してきた。

 

研究者にしろ作家にしろ何にしろ、ハレとケとでも形容したくなるような、目立つ華やかな部分と地味で苦しい部分があると思われる。割合的には1:99なのだろうが、ひと目に触れるのはハレの部分だけであろう。私はいつもハレの部分だけに憧れ、そちらへ行こうとするとたちまちケにぶち当たり、「あ、向いてないわ」とやめてしまう。まあ辞めるなら早いほうがいいし、その程度でやめられるならそれでいいとは思う。だがもし何者かになりたいのであれば、ケを通過するしかないことが最近わかってきた。そのケを苦痛と思うか思わないかは個人差があるだろうが、いずれにせよ自分はそのケから逃げてきた。しかし、どの道もどうやら「甘くはない」ようだ。今更ながらにそれに気がついた。

 

大学を卒業してから、背中を誰かに不意に押されて暗い海に落とされたような自己認識でいる。自分は今までもがいてきた。これからもそうだろう。そしてもがけばもがくほど、沈んでゆく。月の光を求めて常に自分は溺れながらも上をむこうとしてきたが、水の力は強く、下降して苦しむばかりである。そこで、今度は身体の力を抜くことはどうかと考えた。そうすれば、浮上するのではないか。それが今の「仮説」である。しかしそう頭では思うものの、なかなか実行することはできない。あいかわらず溺れている。

 

自分は、自分に対する執着を強く持っており、その裏側には恐怖や不安がある。そのため他人に対しても警戒心が強い。しかしそれにうんざりしている自分もいる。失敗することへの不安がある。恐れがある。自分が上手くないことがバレてしまう恐怖がある。しかしそんなものは馬鹿げていると頭では思うのだが。

 

もっと考えたいことはいろいろあるのだが、今日はここまでにしておく。ちなみに表題は、私が大好きな向井秀徳の『自問自答』という曲からとった。まわりに熱心に勧めているものの、誰も共感してくれない。ぜひ聴いてほしい。