人生、思い通りにいかない。
このフレーズは巷に溢れているが、実際、本当にその通りであると思う。
大学院生活、恋人との関係、将来のこと......文字に起こせばありふれたことであっても、主体として経験した時の感情の起伏、あるいは苦悩は計り知れない。
なぜ、他でもないこの「私」に(ばかり)災いが降りかかるのだろう、と思ってしまう(同じように降り注ぐ幸運のことは忘れながら)。
魂というものは、あるいは私の魂は、あまりに直情的である。インプットをx、心のアウトプットをf(x)としたとき、f(x) = x^n といったところか。
加えて、容赦無く年齢は単純増加していく。
春がくるとわかっていれば、どれほど厳しい冬でも黙って耐えることができる。しかし、春がこない、あるいは来る確率があまりに低ければどうか?
もう、自分自身の生活は破綻しているような気がする。少なくとも経済的に自律的ではない。それは私にとって苦痛だ。どこで間違えたのだろう?と思う。
思い出そうとしたが、思い当たる節がない。つまり、私は間違えてはいない。
あまりに生きるのが苦痛の時、思わず神(超越的な存在)にお願いしてしまう。しかし、この世からの救済というのは本当にあるのだろうか?もしあるならば、ぜひお願いしたい。できれば、この世にいながらにして。しかし、しばしば、私にとって神は現実の女性になってしまう。これが破綻の遠因になっているのは自分でも自覚している。
死んだらカルシウムだけが残る。これが現実である。自分自身による意味付けは消失し、物質だけが残る。それが死ぬということだ。
自分の命を自分で断つことほど愚かなことはない。自死を選ぶくらいなら、老いぼれて道路清掃でもしていた方がましだ。その次の日に、思いがけないチャンスが巡って来ることを、0.000000001%の可能性を待ちながら。そして、死ぬ間際に、「明日という幻想に賭けながら死んでいった男」と自身を理解する。それで十分だと思いたい。