午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

他人の罪を背負うとき

ゴールデンウィークに入って、日常の圧力から一時的に解放された時、激しい空っぽ感に苛まれた。そして、三日三晩、狂ったように小説を書いた。それは傷を癒すため、そして影の脅威から逃れるためである。一応、骨格は結末まで出来上がった。

 

そして、自分が小説を通して相手にしている<<影>>が、人類が普遍的に持つ根源悪だということが(出来上がった作品をひととおりカウンセラーの先生に読んでもらったりしながら)わかってきた。自分は思ったよりも大きなものを相手にしているわけだが、しかしやり遂げるしかないし、自分ならできるという確信が今はある。

 

カウンセラーの先生いわく、たとえば家族に問題があるとき、自分自身に問題がなくても、その家族の問題を一身に背負わされて不登校になる子がいるなど、みんなの問題を一身に引き受けてしまう「弱い」子がいるらしい。その子は感受性が強かったり、繊細だったりする子だそうだ。それを聞いて、それは自分自身のことだと思った。わたしは、いつも「押し付けられている」という不公平感や被害者意識を漠然と持っていたが、それはきっと自分自身が他の人や世界中の人間の苦悩や問題をも引き受けているとうすうす感じているからだろう。不登校や引きこもりの人たちのうちの何割かは、そういうタイプの人だと思う。

 

今までは「自分と他人のあいだに境界を引き、自分と他人の問題を切り分ける」方向で努力してきた。しかし、どうやらそれは無理そうだとわかってきた。最近になって、わたしはもうひとつの方向性、おそらく自分の道がみえてきた。それは、他人の罪をも引き受けて、それを克服してしまうという道だ。それが自分らしい解決策だと(半ば呆れながらも)思う。

 

自分はもちろん性暴力を振るったこともないし、小国に戦争を仕掛けたこともない。だが凄惨なニュースが毎日のように流れるなかで、それを自分ごととして堆積してしまっている。なぜなら、自分自身のうちにも「可能性として」それらの「悪」が潜んでいることを自覚するからであり、それらのニュースを聞いたときにその「悪」の欲望が潜在的に刺激され、そうした悪への性向を脅威とみなして影の領域に追いやっている自我が動揺するからである。

 

わたしの今の考えでは、「悪」は本来人間が持っている潜在的な能力のひとつだが、「社会の維持」という要請によって抑圧されている部分である。「悪」は戦争を引き起こすこともあるが、しかしながら、うまく使えばそれはポジティブなエネルギーとして自我を一段と成長させる存在である。もっとも、「うまく使う」ためには自我の果てしない苦しみを乗り越える必要があると思われるが。

 

他人の罪を引き受けた(歴史上の人物としての)イエスは、おそらくそういう運命を自覚して、満足だったのではないだろうか。他人の罪を引き受けるという一見不利な行為も、自分自身の罪を克服することと等価であり、それを乗り越えた暁には一層の高みに到達するという予感がしている。