午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

繰り返しと自由

昨晩から今朝は急に寒くなったので、体調がすぐれない。朝起きて、社会学の学説史を聴講した。今日はジンメルだった。ジンメルの「貨幣の哲学」はとてもおもしろそうだとは思っていたものの、大著であるため読めていなかった。

 

ジンメル生の哲学者に数えられているらしい。近代における孤独をうまくとらえているジンメルの視点からは、刺激されることが多かった。それは100年経ってもあまり変わっていないのだろう。

 

最近、自由の負の側面についてよく考える。私達が孤独を感じ、虚しいと思うのは、結局自由だからだろう。近代人としての私達は、たとえるなら、知らない街に車で連れてこられて、「あとは自由にしてくれ」と置き去りにされている状態のように思われる。そこでおずおずとその街のルールを学んでなんとかやっていけるようにはなるものの、そもそもどこから連れてこられたのか、なんのために生活しているのか、この生活はどこへつながっているのかはわからないままだ。自らの出自とは切り離されてしまっている。経済的自由についても、それは格差を生み出すと言われているし、最近思った身近な例では、電力自由化は経済学的には消費者に便益をもたらすとされるが、実際は不透明な業者がのさばり、不利益を被るように思われる(自分もうっかり騙されそうになった)。

 

では、自由は悪なのか?と聞かれたら、自分はそれを首肯することはできない。前提として、私達は自由という禁断の果実を食べてしまった、近代以降の人間である。では、どうすればよいのか。私はやはり「繰り返し」が鍵だと思っている。ただし、私が今置かれている状況、私が今やろうとしている繰り返しは、自ら獲得した、ある程度自由意志に基づいた繰り返しである。

 

どういうことか。いうまでもなく、人は生まれたときから繰り返しをしている。ご飯を食べる、排泄をする、寝る等々。学齢期になれば学校へ行く。そして(最近は流動的になってきてはいるものの)会社等へ入ってまた日常を繰り返す。それは言ってみれば他者によって与えられた繰り返しである。それは、繰り返しを行う個人の身体などを無視して、他人、あるいは全体に奉仕するように仕組まれている。制服を着せる学校教育は、個性うんぬんと言ってはいるものの、実際そういう官僚的な組織が予め個人の多様性に配慮するのは難しい。そこで、与えられた繰り返しのバイオリズムは、個人の自我、もっといえば個人の生活リズムとは敵対的な関係として現れ、葛藤として個人のなかでは表現される。個人が薬を飲んで不調を抑えつつ、そうした組織に通うというように。こうした葛藤に対して敏感なタイプの個人は、やがてその認知不協和に耐えられなくなり、自我を再構築する方向へと向かう。その過程で、個人は与えられた繰り返しから離脱して、一時的には完全に自由になる。この場合の自由とは、縛るものがないという点での自由だ。朝好きな時間におきていいし、好きな時間に酒を飲んで、何もせずに寝る。私もこの状態になることがある。

 

しかし、少なくとも私の場合、こうした自由に耐えられなくなった。そこでなかで私は、「枠組み」を希求した。枠組みのない人間の脆さというものを経験から知った。枠組みのないふらふらした状態で暮らせる人間は、相当強い人間であり、どうやら私にはできそうにない。そこで私がたどり着いたのが、繰り返しに戻ることだった。だがそれはもはや、与えられた繰り返しではなく、自らの身体から出発し、与えられた世界を工夫し加工して変形することで自らの主体性を確保する可能性を備えた、(ある程度)主体的な繰り返し、獲得した繰り返しである。もちろん、他者や世界を無視して繰り返しはできないため、自分のバイオリズムと、世界のバイオリズムの周波数をあわせるのである。しかしそれはあくまで、自分の身体を出発点とする。繰り返しが与えられたのか獲得したのかの違いは、ある程度は認識の問題である。しかし、獲得した繰り返しは自らがリズムの中心=軸になっているという点で、本質的には構造的な問題でもあるように思える。虚無の大きな穴の中で、自ら毎日の雪かきのような繰り返しを行うことで、人は居場所を獲得するのだ。繰り返しは、自分自身に役割を与える。自分で自分を拘束する。その繰り返しは無意味のように思えても、いつかそれを引き継ぐ奇特な人間が現れることだろう。仮にその人がいなくても、自ら繰り返した生が終わり、人類が滅亡した後も、地球は回転を繰り返し、宇宙は続いていく。そういう意味で、自らの身体を出発とした繰り返しは、世界と接続する回路を備えているように思える。

 

もちろん、厳密に与えられた/獲得したと二分できるものでないことはわかっているが、私自身は最近のアイデンティティの危機から陥った精神的不調から脱出するための羅針盤として、引き続き「繰り返し」について考えて実践していきたい。