午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

黒い川

悲しいニュースが続いている。有名な、年の近い若い俳優が突然自ら命を絶ったという報道は、他の人びとと同様、私の心にも打撃を与えた。とても悲しくなった。それについては、ただ手を合わせるしかない。

 

ある日の夜、女の子がベッドの上で寝転んでいる横で、私はピアノを弾いていた。薄暗い部屋を間接照明が照らしていた。決して上手くはないが、それでも音でしか表現できないものがあった。年を重ねると、いや、そうでなくても、人の苦悩というものはとても論理では表現できない。ただ、音色に滲み出る深い翳を通してしか、自分自身、なにを感じているのかを知ることができない。私は内心ひどく落ち込んでいたが、唯一の救いは、女の子がその音を聴いていることだった。

 

女の子を見送ったあと、近所の大きな川へいった。深夜の黒い川の向こうに、マンションの灯火がうっすらと見える。私は、そのなかで、自由になった気がした。死ぬものか、と思った。その日、大学院のゼミの課題で『戦争体験:1970年への遺書』という本を読んでいた。その本は、学徒出陣に巻き込まれた若い世代の独白だった。私には、軽薄できらびやかな時代の中心で亡くなった若い俳優と、本の中で独白するかつての若者の叫びが重なって見えた。それらは正反対の時代を生きていた。片方は、平和とあらゆる享楽の中を、もう片方は著書の表現を借りれば命が軽く扱われた戦争の中を。しかし、それらの両極端は、それほど違うものなのだろうか?もちろん、戦争を経験していない私に戦争を薄っぺらくまとめる資格はない。しかし、それらを覆っているのは同様のもの、すなわち人間の根源的な苦悩ではないか。夜の川辺を散歩しながらそう思った。

 

私がもっとも大切にしている文章に、他界した祖父から7年前にもらった言葉がある。それを引用する。

 

人は「人生と生活」相反しながら、しかし表裏一体の関係を持つ二つの側面に支えられて生きている。「人生」は意志の自由を求め(自由意志の確立
すなわち存在の自由を求め)「生活」は客体(自己の存在を含めた他者)の生存維持を求め続ける。この二つの側面は、個人の中では相反する存在としてあり、個の生きる苦悩としてとらえる事が出来る。その苦悩は、二つの側面のバランスをどう維持するかであり、生きている限り続き、そして君の言う「良識」によってかろうじて安定を保つ事ができる。さらに、生きることは、時間の認識の中にあり何事も時とともに変化・進歩するので、苦悩からのがれられないのだ。

 

川を歩きながら、今更ながらに悟った。私はもはや、生きている限り、苦悩から逃れることはできないのだと。そもそも、生きることそのものが、苦悩であるのだと。そう思ったら、もはや受け止めるしかない。抗うこともなく、それに従って私達は生きるしかないのだ。

 

亡くなっていったすべての人々に、ご冥福をお祈りしたい。