午後のまどろみ

らくがき未満 / less than sketches

暗闇

最近、研究がうまくいっていたと思っていたのに、急に奈落の底に落とされたような状況になっている。11月末の論文の締切に間に合うのか、今書いているものを論文として仕上げられるのか、そこへの不安が引き金になり、一気に足場である理論枠組みへの懐疑、そして自分自身の生活への懐疑へと突き落とされた。もとより、対象(でありかつ自分自身が生きる)となる現実世界が複雑すぎて、大きな穴に穴の直径より小さい橋をかけているような感覚に陥る。それで、穴に落ちてしまうのだ。まさに、一寸先は闇だ。

 

ところで昨日、金剛山へ登った。改めて、自分は都会で一種の適応障害になっているのではないかと思った。都会の1Kひとり暮らしは、ほんとのところは自分にあまり適していないと思う。しかし、(悲しいことに)私は都会人である。都会人とは、生まれたときからサービスを外部に依存しているため、都会以外で生きていけない人間のことである。だから、DIYが得意ならばともかく、そういうのが特に苦手な私は、都会の呪いを受け続けるしかない。しかもやっかいなことに、私は結局は都会が好きなのである。

 

1Kひとり暮らしは、「近代」を凝縮させたものだと思う。近代人の心性は、ひとり部屋である。誰もが、ひとり部屋で区切られている。そこから数々の自由と、権利と、問題が発生している。それは禁断の果実のように、一度食べたらもとの感覚には戻れない。そんな鉄筋の部屋に閉じ込められて、寒い都会で怯えている。しかしそこは、避難所でもあるし、独立した精神の根城ともなりうる。

 

そういった都会において、血縁や地縁に基づかない「親しい人」というのはかなり脆いものだと思う。その気になれば、いつでも関係を終わらせることは、自由にもつながるが、根無し草感にもつながる。いつでも引っ越せることは、自由である反面、自身の存在の根拠すら曖昧にさせる。それが私が抱えている頭痛のような感覚であり、おそらくみなの問題でもあると思う。

 

そのような世界で、いかにして自身における存在の根拠を確立していくか。残念なことに、私はそれに対して、あまり明るい展望を持っていない。