午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

秋の公園

台風が過ぎ去って、秋にしては暑い日だった。日本学術会議に対する任命拒否の是非で世間は盛り上がり、私のメールボックスにもいろいろな学会が(金太郎飴のように)学術会議の任命拒否に関する声明なるものを発出しているが、私にはそもそも今日における「学問の自由」がなにを意味するかがわからなかったので、私の日々はなにも変わらず続いていた。私は事務作業を終わらせて、近くにある長居公園を散歩した。地下鉄の駅の近くにある大きな公園というのは、いかにも都会的で私の好みに合っていた。

 

慣れてくると、大阪市は住みやすい街だと思うようになってきた。コンパクトにまとまっている。東京や名古屋に比べると体感治安は若干悪いが、それもそういう場所がどこにあるかさえわかっていれば何の問題もなかった(維新市政になってから格段に良くなったという話をちらほら聞いている)。そのうち自転車でも買って御堂筋をずっと走ろうかと思っている。

 

暑いとはいえ、秋を感じる天気ではあったので、幾分か感傷的になっていた。金木犀の匂いがしていた。秋になると、いつも以上に孤独を感じる。昨日の夜も、悪夢のような夢をみた。誰もいない、誰もに忘れ去られた部屋で、女の人が泣いている。自分はそれを見届けるしかない。寒々しいほどに無音で、夜中に起きたときは頭が混乱していた。

 

いい加減、自分は世界と和解したかった。自分は、ただ社会に役割をみつけたいというささやかな願いを持った一青年に過ぎない。追放者という自己規定は、辛いものがあった。孤独を癒やすために、自身の力のすべてを使って表現をしたいと思っていた。大江健三郎が書いた文章にこんなものがある。

 

《90〔柱〕柱は、世界軸(axis  mundi)であり、言語とものが和解する装置である。直立するものは美しい。》・・・

自分のうちにを、世界軸をたてるべくつとめ、自分の言葉が事物・人間・社会・世界と、ついには和解しうることを信ぜよ。新しい書き手として仕事をするきみの、それを根本的態度とせよ。そこに出発点をきざむならば、いかにきみがこれから、言葉とものとの苦しい戦いを経験してゆかねばならないのであるにしても、きみにとって未来への展開はまったく自由なひろがりに向かうはずだし、その自由さには、人間的な根拠があるはずだから……

大江健三郎,1988,『新しい文学のために』岩波新書pp208-209)

 

自分は、自分の言葉をうまく使いこなせていない。それゆえいつも、考え抜かれていない、大きすぎる言葉によって人を傷つけてしまう。そんな寒々しい自分自身の世界との向き合い方からおさらばしたい。こんな自分でも、世界と和解することはできるのだろうか。

 

「自分とは誰か?」が最近わからなくなっている。しかし、私が問うべきなのはむしろ、「私が私を愛することは(肥大化した自己愛という解決策に頼らずに、いかにして)可能か?」という問いの方だと思った。自分自身からの疎外、それを打破したい。自分のささやかな言葉の力を信じたい。他人を羨むことを止め、自分自身の柱を世界に打ち立てたい。自分自身の悪癖のすべてを受け止め、それでも自分自身を救い出す物語を立ち上げたい。

 

人間の本音というものは、グロテスクなものだと思う。(以下のYouTubeを観てほしい)

 

彼は、学部時代はとてもまじめで堅物な男だと思われていた。今は、みんなのアイドルになりたいらしい。学部時代の彼を知っている人間に、このYouTube動画は受け入れられないだろう。彼に批判的な人間を私は知っているが、私はむしろ彼のむき出しのグロテスクさ(いい意味で)が好きだ。とすると、自分自身のグロテスクさとは何か。自分自身、他人に否定される部分は結構ある。しかし、その批判をどこまで受け入れる必要があるのだろうか。それらを考えるうえで、この動画は参考になる。

 

長々と書いてしまったが、とりあえず、私は今、大阪を楽しんでいる。それだけは言える。