午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

運命

秋の夜長に、山下達郎の『kissからはじめるミステリー』を聴きながら、運命についてまじめに考えていた。今はフランスにいる友人がかつて「私の教授は運命論者なんだよね」という話を繰り返ししていたのが妙に印象に残っていた。私は彼女の話を通して間接的に、その教授の影響を受けているような気もした。もっとも、直接話したわけではないので、その教授の「運命論」がどのようなものなのかはわからないが。

 

歳を重ねてきて、運命というものを単なるロマンティシズム以上のものとして考えるようになった。運命というものは人智を超えた超越論的なものである。運命の存在を認めることは、そのまま人間の限界を認めることである。島で暮らしたり、いろいろ思うようにいかなかったり予想外のことがたくさん起こったりしたことで、「私(あるいは意志を持った私達)」を中心にして世界がまわっているという認識から、「自然」や「運命」といった大きなもののの周縁に過ぎない人類という認識に変わってきた。自然や宇宙、あるいは神秘的なもの(=私達の理解を超えているもの)が主で、私達はあくまでも従であるということである。

 

私達は、自分たちがやっていることをなにもわかっていない。自分の行為の意味を理解している人間なんていない。私はそう思う。私達はいつも、運命というやつに踊らされているだけだ。そういう考え方は、実用的でもある。なぜなら、そう考えれば、私達は自分自身の行為や人生に(その観点からみれば)過大な責任を負わされることがないからだ。「ほら、運命だったんだよ」という言葉は、すべての無残な現実を説明する考えられるもっともロマンチックな説明方法だ。その論理構造は一見して、陰謀論に似ている。運命と言う名の秘密結社に、私達は踊らされている。しかしながら陰謀論との違いは、運命には意志もなければ意図もないということだ。もののけ姫に出てくる、生と死を司るシシガミさまのようなものである。その行為は、人間には理解できない。作中でも、それぞれがシシガミさまの行為をそれぞれの立場から解釈しているにすぎず、本当のところはわからない。

 

運命が予め決定されているという考え方に私はまったく与しない。しかしながら、未来が現実と重なった瞬間に、それは予め決定されていたのだという奇妙な考え方をしたくなる。そこに何らかの意図を読み取ろうとしてしまう。そして、それこそが人生の物語を形作る「解釈」なのである。

 

 運命は先程も述べたように、私達の人生に意味を与えてくれる。超越論的なものを認めない認識は、恐ろしいほどに無味乾燥で、無意味の砂漠だ。私は、結局のところ、そんな無意味の砂漠で北極星を見て、今いる世界の意味を見出したいのだった。