午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

無意味さ

クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を以前読んだのとは別の訳で読んだ。

 

 

クンデラは何回も完成した作品に手を加えて改稿しているので底本によって内容が変わっているらしいのだが、読んだ本の結末が私の記憶にはなかった。ネタバレをすると、苦しんでいたふたりの男女が田舎で小さな幸せを見つける、という終わり方だ。そういうと、クンデラは猛抗議するだろう。そんな簡単にまとめるなと、そんなキッチュなものではないのだと。作中、クンデラはあらゆる登場人物を総動員してキッチュ(俗悪なもの、まがいもの)を総攻撃している。しかし、2回目の読書で、私はキッチュよりもむしろクンデラのヨーロッパ知識人へのうぬぼれのような自意識のほうに嫌悪感を覚えた。結局のところ、作品をキッチュから隔てるものなんてなにもないのではないか、それが今の私の感想である。永遠で、普遍的に美しい作品なんてない。人がなにか言葉を発して、それが空気に触れた瞬間に、その美しいものはキッチュになる。

 

思うに、キッチュというのはその個別具体的な場所や空間と紐付いていることから生まれるのではないか。そう、形而「下」というものはつまらないものだ。どんなものでも形而上から形而下(英語ではphysics、つまり物理学のことである)に降りてきた瞬間に、それは「堕落」する。しかしそれは本当に堕落なのだろうか?と思った。

 

話は変わって、自分自身のことを考えると、相変わらずアイデンティティ・クライシスとでも言える状況にある。あるいは島から都会に戻って一人暮らし生活で一種の適応障害的な状況に見舞われているのかもしれない。かつて、時間は過去から未来へ一直線に流れるという感覚を参照点にして生きてきたが、今やその時間間隔がまったく消失してしまい、方向感覚がなくなってしまっている。理由のわからない苦痛に見舞われており(あるいはただの環境変化とコロナのストレスかもしれないが)向精神薬と酒に頼る日々である。

 

つまるところ、「目的」というものがなかった。世の中が人々のために用意したいつくかのハッピーエンド(「結婚して幸せな生活」「やりたいことをやる人生」等々)のいずれも信じられない。かといってその代替案を自分で考えられるほど、自分は独創的な人間ではない。

 

近代人というのは、未来を燃料にして生きている。月末に給料が振り込まれることを期待して今日働くというように。そんな中で、期待すべき「未来」のイメージが消失して尽きてしまったら、放り出された私はどのように生きていけばよいのだろうか?

 

20歳の時、目黒の中華料理店でふと目の前のコップの存在の自明性を疑ってから、私は「有ること」あるいは存在というものを強く疑ってしまっている。物事をキッチュにすると私が先に主張した個別具体的な場所や時間という存在の重力に、私は押しつぶされそうになっている。私の精神はいつまでも自由をもとめ、血を流し続けている。夜中に発狂してしまうのではないかという妄想に囚われている。20代前半で「救い」だと思っていたものが、まるで助けにならないものだったということがわかって、収容所のようなこの世の中から抜け出すことだけを最後の望みとして考えるようになった。この魂の叫びはしかし、誰にも届いていないのだった。