午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

ウイスキー

もうすぐ夜の0時をまわろうとしている。もともと私は23時には寝る人間であったが、引越し先の物件はほど近くに線路や踏切があり、どうせ終電まで寝られないので、ライフスタイルをそれに合わせることにしたのだ。

 

今は間接照明だけをつけて、暗い中でジャズを聴きながらウイスキーを飲んでいる。マッチングアプリをきっかけにして最近知り合った感受性の強い女の子と、河合隼雄ユングの話をしている。彼女は深層心理に興味があるようだ。私は途中まで、いつものように真剣な感じでその物語にのめり込みそうになったが、年をとったせいか、それが急にバカバカしくなってやめた。そして急にミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読みたくなったが手元にないので、かわりに書評を読んだ。「重さと軽さ」。それがこの本のテーマである。これを読んだのは22歳だったが、6年近く経った今もし読み返したとしたら、違う感想を抱くのかもしれない。

 

クンデラのこの本の、奥底にある虚しさのようなものに、青年期の私は強く惹きつけられた。私の人生の、どこかバカバカしい「軽さ」、その根底にあると思われる、途方も無い「重さ」。私自身に物語があるとすれば、それは物語に抵抗する物語である。物語はいつも、きれいな統一性、全体主義への傾向を隠し持つ。しかしその一瞬一瞬で生成される現実は、常に物語のきれいな説明に歯向かうものである。つまり、諸行無常である。重さも軽さも、究極的には「無い」のである。

 

しかし、その21歳の女の子とやりとりしていて、自分自身がいつの間にかおとなになってしまって、そのような自分の物語について考えることがなくなっていたことに気がついた。自分がどこへ向かっているのか、そんなことは考えから遠ざかっていた。いつの間にか、自分の人生についてわかった気になってしまっていた。自分の存在は、冗談なのか、本気なのか。そして自分にとってあのおなじみの問い、なぜ生まれてきたのか、なぜ死にゆく運命に在るのか、それとどう折り合いをつけていくのかという困惑が頭をもたげてきた。釈尊が2600年前に理論的に示した真理と、どう向きあえばよいのか。

 

ウイスキーの味が、いつもより美味く感じられた。