「そういうわけで、僕の人生の意味も、目標も、すっかり見失ってしまったんだ」
僕は部屋のなかで、『女の子』に語りかけた。
「そうなのね。じゃあ、どうしたいの」
実態のない、想像上の彼女はいつものように優しく言った。
「ひとつだけ、いいアイデアがあって」
「なに?」
「風を浴びたい」
「そうなの?」
「うん。恋人が明日、熊野古道に行く計画を立てようって言ってくれたことから想像したんだけど。ふたりで熊野古道に逃亡するっていうイメージが、なんかいいなって思って。人生の意味がばらばらになって崩れ落ちて、混沌としているけれど、それでもこの『風を浴びたい』っていう欲求だけが、なんだかしっくりきてて、思いついた瞬間、悪くないなって思った」
「そうなんだ」
「風を浴びること、それだけが、意味のある気がしてるんだ。最近クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読み返してるんだけれど、やっぱり自分はトマーシュとどことなく似てるというか、あるいはそれを生み出したクンデラの気持ちが少しわかるというか。あのなかで、トマーシュとテレザは最後田舎町へ行くんだよ」
「それで、どうなるの?」
「小説中では、ふたりは事故で死んでしまう。大丈夫、僕はべつに死のうとなんてまったく思ってないから。7年ぶりに読み返してるけれど、この小説の登場人物には悲しみと諦めが渦巻いてるね。わかりやすいものへの嫌悪も。話は変わるんだけれども、生きるか死ぬかとか、そんなこと考えなくてもいいような気がしてきたな」
「いつもそれを言ってる」
「もちろん、考えちゃうから。だって、希望がなかったら、大変な日常を維持する気力もなくなるじゃないか」
「希望ね」
「そう、あのヴィクトール・フランクルの『夜と霧』で言ってたような希望。僕は希望がほしい。これはどんなにごまかそうとしても、抑えきれない。僕に仏教は早すぎたみたいだ。そしてその希望が、『風を浴びること』なんだ。比喩じゃなくて、本当に、物理的に。押し付けられた意味に対する反抗とか、もうどうでもいい。風を浴びることに固執してみようと思う。それこそが、自分の『軸』なんだよね。少なくとも今は。自分がコマだとしたら、そこを軸に回っている。そして、頭を使わずに、ただ彼女の存在を感じることを学びたい。それこそ風を浴びるように。これは難しいかもしれない。突然自分を変えることなんてできないから。ただ、僕は耳が良いから、もしかしたら存在を聴くことくらいはできるかも。僕は生まれ変わる。少しずつ。そして、世界をただ、黙って受け入れることを試してみようと思う。うまくいくかはわからないけれど」
「あなたならできるよ」
「そんなことはないよ。どうやら、僕は『意志』とかいう手垢のついた陳腐なものに未だに期待しているようだ。かっこつけて、東洋的なものに関心を寄せていたけれども。苦笑いするしかないね。とりあえず、頑張ってみようとは思う。ありがとう」