午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

わからない

博論を書くために、先行研究を集めていた。私の博論のテーマは過疎農山漁村の地域おこしに関するものである。そのため、「地域おこし」に関する議論をいろいろと読んでいた。

 

しかし、読んでいて、わからなくなってきた。もとより、「地域おこし」というのが何なのかわからないというのは現場の島にいたころからの疑問である。

 

私が今日改めて集めたのは、「地方創生」という政府の施策、およびそれに対する批判だ。「地方消滅」と危機感を煽った「増田レポート」を批判している側は農山村の味方ぶって(失礼)いろいろな期待を寄せていたりするのだが、それすらも果たして誰目線なのだろうか?と思ってしまった。「内発的」な農村づくりを外部から研究して介入しようとすること自体矛盾しているではないか?「新自由主義」的な「選択と集中」であると批判される「増田レポート」、あるいはそれに対する農村は素晴らしいとか持続可能であるという批判も、両方とも特定のイデオロギーを背負っている。そして両方とも与し難い。都会の産物である大学や研究者が、彼らについて何を語ればいいのか?(自分も含めて)上から目線ではなかろうか?本人たちはほんとうにそんなことを問題にしているのだろうか?ワークショップにどれほどの意味があるのだろうか?「地元の良いところを再発見する」などといって外部の講師が講釈垂れることにどんな意味があるのだろうか?

 

本音で話すと、「地域おこし」なんて必要なのだろうか?ましてや、外部から危機意識を煽る必要があるのだろうか?と内心思っている。

 

なぜ私がこのテーマで研究するのか?それは予算をとってしまったからである。なぜ予算をとれたかと言うと、(おそらく)国の政策的な思惑の延長線上に自分の研究があるからだ。それが「社会的に意義のある」ことだからだ。

 

しかし、「社会的に意義のある」とはなんなのか?論文を書く際には、特に最近では当たり前のように学術的な意義とならんで社会的な意義を求められるが、それがなんなのかわからない。というかもっといってしまえば、そんな研究はありえないと思う。

 

「地域おこし」に関する自分の理解がぐちゃぐちゃになってしまっている理由が、「地域おこし」に何を求めるのかの人々の価値観の違いだと思う。たとえば条件不利地域では医療が問題だが、そこの医療を都会並みにするのが地域づくりなのだろうか?経済的な利益を求めるのが地域づくりなのだろうか?ただ、自分自身は都会に住んで経済的な便益を享受している(ビリー・アイリッシュ風に言えば『特権』を持った)身なので、それをもとに「ならば都会に移住すればいいじゃないか」「田舎は田舎らしく医療がなくても自然のまま暮せばいいじゃないか」などと言うつもりはない。

 

私は自分がやっている研究に矛盾を感じている。地域は衰退するがままがいいですと申請書に書いたら、科研費はとれないだろう。そういう意味で私は国家権力の手先になっている。「地方創生」は国のため、という論法自体が何か搾取めいたものを感じる。しかし本当に搾取なのだろうか?その判断自体も慎重にならなければならない。それはものの見方の問題で、国家や権力というのを社会学は悪く捉える傾向にあるが、政策立案している人間が悪代官ばかりだとは到底思えない。みな良かれと思ってやっているのだろう。しかし良くも悪くも、彼ら中央からしたら想像できないようなものが地方にはある。

 

地域づくりというのは、目標と不可分である。目標を規定するのは先にも述べたが価値観である。私の研究はそのどこに踏み込めば良いのか。わからない。

 

とりあえずは、価値判断から離れて「何が起こっているか」を研究の主眼にしたいと思う。私にひとつだけ頼りになるものがあるとしたら、実際に2年間離島に住んだ経験である。あのときは、「中央」のものさしではかった基準がいかに無意味(で鼻持ちならない)ものなのかと常に批判的だった。しかし、都会に戻るとすぐに先祖返りして中央のものの見方に戻ってしまった。その点は批判的な視点を持ち続けたい。

 

疑問ばかり浮かんで、かれこれ4年以上、一向に答えが出ない。悩みは続く。