午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

「丁寧な暮らし」

「丁寧な暮らし」。最近この言葉をよく聞く。はじめて私がこの言葉にであったのは、フィールド調査で有機栽培を行うコミューンのような場所でインタビューしたときだ。

 

礼文島で2年間田舎暮らしをしてから都会に帰ってきた。20代も後半になってきた。そんな中でのこの「丁寧な暮らし」という土着の民間信仰のような流行に、最近惹かれている。

 

「丁寧な暮らし」という思想が生まれた背景にあるのは、過剰生産・過剰消費に対するアンチテーゼなのは言うまでもない。しかしながらこの「丁寧な暮らし」の良いところは、極端ではないところだと思う。「丁寧な暮らし」をしたいだけで、他人にそれを押し付けるわけではない。もともとある暮らしを「丁寧に」するだけで、なにかラディカルな変化を望むわけではない(田舎に移住して専業農家にでもなれば別だが)。このあくまでささやかな抵抗意識は、都会で生きていく自分の肌に合っている。

 

「丁寧な暮らし」は、日常生活のスピードをゆるめることに意義がある。我々は多かれ少なかれ、他人時間で生きている。我々一人ひとりの存在を遥かに凌駕した巨大な産業機構に我々が埋め込まれている以上、それは避けがたい。しかし「丁寧な暮らし」は、そんな他人時間に対する自分時間の抵抗なのである。

 

普段よりゆっくりとコーヒーを淹れることは、産業社会の要請ではなく、自分自身の要請である。その一杯のコーヒーをいつもよりゆっくり淹れる時間が、巨大な市場経済・産業社会に対する抵抗なのであり、そこで生まれた空白こそが、普段時間奴隷として生きている我々が享受できるつかの間の自由なのである。

 

それが個人の余暇レベルで実現できる丁寧な暮らしだが、私は一歩進んで自分の仕事もいつかは「丁寧な暮らし」パラダイムに引き寄せられたらいいなと思っている。仕事を、他人の欲求を満たすだけの他人時間から、自分のバイオリズムに合わせた自分時間に取り戻すのである。

 

そのために、国から資金を供給されて自由にドクターとして研究できる間に、いろいろとできることをしておきたいと考えている。すべては自分の自由のために。