午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

地球感覚

ここ2年ほど、「天地がひっくり返る」という謎の予期不安にずっと悩まされていた。きっかけは、とある巨大な建造物を見たことだった。縮尺がおかしく感じられ、まるで空と大地がひっくり返るような感じがして、それがただの想像ではなく、リアルな恐怖と結びつき、地面に立っているのに高所恐怖症と同じ症状が出た。それ以来、そういう建物を見ると頻繁に起こるようになった。たとえば梅田駅の乗り換えのために歩く、ビルの谷間のような踊り場で、強烈な恐怖に襲われて立ちすくむこともあった。これは生物学的なものに違いない、おそらく扁桃体の異常だろうと考え、心療内科に行くことも考えていた。しかし、オーストラリアに行ってから、その症状が嘘のようになくなった。

 

理由はおそらく、「地球感覚」を得たことだと思う。「地球感覚」は、先ほど思いついた造語だ。オーストラリアと日本、北半球と南半球。地球は丸い。その丸い地球に、自分は立っている。オーストラリアから日本に戻る飛行機で窓を見ながら得た「地球は丸い」という認識に支えられ、その地球の上に立っているという絶対的な感覚が、「地球感覚」である。どういう理屈かはわたしも今考えているところだが、この感覚は、地球が球体であることと関係している。もし、地球が平面であるとわたしが信じていたら、おそらくこの感覚はない気がする。丸いからこそ、端と端がないので、逃げ場がないという状況がない。平面であれば、逃げ場がないと感じ、相変わらずパニックは続くだろう。そういう絶対的な「地球感覚」を得て、わたしはかなり落ち着いている。オーストラリアにいようが、日本にいようが、自分自身は変わらない。礼儀正しいが中身は無頼の人間である。それが自分だ。そういう感覚だ。

 

話は変わるが、「世間」についても考えた。先日オーストラリアに行って、「世間」というものを相対化できた。わたしは「世間」の目にずっと苦しんでいて、それはアクティブ・イマジネーションで化物として把握されていた。

 

評論家の山本七平という人が書いた『空気の研究』という本で、「臨在感的把握」という概念が出てくる。彼はわれわれを縛る「空気」という得体の知れないもののメカニズムを考えるために、この「臨在感的把握」からの絶対化、ということを考えた。「臨在感的把握」は、物質や言葉、偶像などの対象に感情移入することで自己と同一化し、それによって対象が絶対化され、対象に逆に支配されてしまう現象を指す。この概念は非常に面白いと思った。そして、ユングの「元型」をめぐるメカニズムも、同じようなものを指しているのではないかと考えた。元型は、投影を通してしか把握できない。「影(シャドー)」に乗っ取られる人の話があるように、元型を理性ではなく感情によって同一化してしまった場合、その元型的な力は背後にまわり、破壊的な力をともなって発揮されてしまう。

 

わたしを息苦しくさせる「世間」も、「臨在感的把握」に基づいた元型的なものなのではないかと考えた。元型を感じた時、ヌミノースという神秘的な高揚を感じるとユングが述べていたように、元型的な力はおそらく理性よりも感情と深く結びついている。「世間」あるいは「空気」が元型であるというすれば、それは普段理性では認識されず、むしろ、無意識化で感情と深く結びついた劣等コンプレックスのように、人々の感情と深く結びついた形で現れる。そして、「世間様」はわたしたちの背後から影響を及ぼし続ける。「お天道様は見ている」と言わんばかりに、わたしたちを背後から監視するのである。

 

では、それから逃れるにはどうすればよいのだろうか。山本氏は、「臨在感的把握」から発生する超能力的な「空気」の支配から逃れるには、「水をさす」ことが大切だと述べている。あるいは、ユングは『元型論』のなかで、元型を意識にのぼらせることが大切だと述べている。考えてみれば、わたしはカウンセリングを通して、常にカウンセラーの先生に「水をさされて」いた。ネガティブなスキーマ、認知の歪みががあらわれると繰り返し、「それってほんとにそうなの?〜という可能性もあるんじゃないの?」と水をさされていたのである。わたしは言ってみれば、「世間教」というカルト宗教に取り憑かれており、逆らえば村八分になるというカルト宗教さながらの脅しをその宗教から受けていた。その脅しを解くことをカウンセリングでやっていたのである。

 

カウンセリングは、長いあいだ、こう着状態であった。なぜなら、その状況を打開するには「世間」を相対化するための「他者」の力が必要であったからだ。それをわたしはオーストラリアで得た。彼の地で別の世界を見たのである。

 

わたしを支えたのは「地球感覚」であり、先日ブログで書いた「自己責任」への目覚めであった。他人に依存する方が面倒で、自分で自立したほうが楽だと気がついたのである。もしかしたらそれが、地球にしっかりと立っているという重力を感じることにつながったのかもしれない。それらの支えがあるからこそ、「世間」を相対化しても、自分のなかに空虚さは少しも感じなかった。「存在している」という確かな感覚をわたしは得ていた。地球は丸いという感覚、いろいろな世界があるのだという感覚は、わたしにとってこの上ない福音である。「世間様」に抵抗するには、その「臨在感的把握」から抜け出し、「水を差し」、「地球感覚」で別の世界を知覚し、相対化すればよい。そうしたら、Y字路のように、別の道が見えてくる。それはとても自由な、おもしろい人生につながるだろう。

 

半分寝ぼけながら書いたが、今日はここまでにしておく。