午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

破綻...からの

最近、うまくいかないことが重なって、歯車が回らず、研究の道を目指してみたがもはやこれまでかな、と感じることが重なっている。野球の試合に例えたら、8回裏ですでに9-3くらいで負けており、あと1回ではどう足掻いても勝てそうにないことが見えてきてしまっている。そして、1番問題なのは、今まで自分をごまかしながらも「頑張ろう」という志だけでやってきたが、その火がまったく消えてしまったことである。ある意味、誤魔化さなくなったということだが、それがよいことなのかはわからない。

 

燃え尽き症候群とも違う。自然な形で、「あ、やってみたけど無理だったな」と思ってしまったのである。変な納得感があるだけ、余計に前に進めなくなった。研究をやめることを夢想し、心が晴れ晴れとすらしてしまっている。

 

「うまくいっていない」からこそ、これでもかと自分自身を突きつけられている。自分自身と向き合わざるを得ない。むしろ研究が「うまくいっていた」時の方が、単一の目標のもと近視眼的になり、自分自身を自分から疎外し、苦しくなっていた。自分と向き合うということは、自分を責めることよりも辛い。自分の在り方を変える、つまり行動しなければならないからだ。

 

数年前、フリーランスの料理人を目指していたとある友達が、フリーランスを目指して会社を辞めたあと、いろいろやってみたのだが借金が膨らんで回らなくなり、破綻したことがあった。しかしその後急転直下で、料理人を一度は諦めるつもりが再び帰った故郷で再起し、なんと最愛の妻まで見つけて結婚し、今は自分らしくやっている。彼は筋肉ムキムキなのだが、まさに筋肉の超回復のような大復活劇だった。破綻してから復活するまでたった数ヶ月のことだったと思う。

 

別の例で、学部の時、留年してうまくいかなかったと思ったら、それをきっかけに人生が急激に上向いた奴もいた。わたしは、すごいと思うと同時に不思議に思い、そのメカニズムがどんなものなのか知りたかった。そうすれば、再現できると考えたからである。

 

「うまくいっていない」今思うのは、おそらく、「破綻」したからこそいろいろなものを「捨てる」ことができたのかな、と思う。追い詰められたことで、本当に必要なものとそうでないもの、必要なひととそうでないひとが見えたのだろう。そしてなにより、「自分を変える」というチャンスがめぐってきたのだろう。うまくいっていないときは、自分自身の生き方を変えるチャンスなのである。

 

わたしは、つかのまの「研究員」というポストを経て、「まとも」になっていた。それゆえ、組織や社会・親の要求のなかで、さまざまなことにがんじがらめになっていた。それを捨ててしまい、パスポートと金だけで生きていこうという海外のときのように、身一つで生きていきたい。

 

さて、自分の生活は破綻しつつあるが、自分はこの先どうなっていくのだろうか。人生、これからがおもしろいぞ、と強がってみたりする。