午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

10月

23時を回っている。疲れ切って、一息つこうとウイスキーと氷の入ったグラスを用意した。

 

毎日、本当に忙しい。コロナは落ち着いたらしいが、そんなことには全然関係なく、日々のプレッシャーは強く、いつも焦らされている。将来の見通しは不安定だ。ひさびさのブログだから、なんだか言葉があまり出てこない。とりあえず、最近気に入ったGerry Mulliganという人の"Night Light"という静かなアルバムを聴いている。これがかなりいい感じだ。

 

 

 

私は、フィールドワークという、少なくとも社会学ではもっとも時間がかかり、うまくいくかがリスキーな調査方法をとるはめになっている。お金がないのに(今は研究費があるが)、何度も調査地に通って現地の人と関係を作っていかなければならない。本当はパソコンの前に座ってデータ分析だけをやっていたいのだが、なんの因果か農山漁村地域活性化なんてものを研究テーマにしてしまっているので、こういう、博士課程長期化・貧乏暮らし必死の(博士号を取るには)非効率的で非合理的な方法になってしまっている。それがとてもつらい。しかし、だいぶ前からそれは「仕事」で(事実、国から給料と研究費をもらっている)、この研究テーマにしたのは「ご縁」だと諦めている。しかし、そうは思ってもぼやきたくなるときはある(ほとんど毎日)。成果がでなかったら、もう本当にアカデミアを目指すのは辞めるつもりだ(そのときは、むしろせいせいするかもしれない)。

 

研究者を志す以前は、このブログの記事を見ればわかるが、国内外のさまざまな地域をめぐってきた。そういう意味では、自分が地域・都市社会学をやり、フィールドワークをやることになったのはめぐり合わせ、あるいは必然かもしれない。少し話は飛ぶが、先程夜道を散歩していて、自由と責任について考えをめぐらしていた。人生は、決定論的に、もともと決まっているのだろうか。それとも、自由意志がそこに入り込む余地があるのだろうか。自由意志と責任にはどのような関係があるのだろうか。その先にある、一回しかない人生、動物として生まれてそして死にゆくという運命と、どう対峙すればよいのかという問い。それがずっと私の根本的な関心としてある。物事は一回しか起こらない。一度きりの人生で、その人と過ごす時間は一回の人生につき一度きりだ。代えは効かない。有り難い。凡庸すぎる結論で恐縮だが、一回一回をしっかりと生きる、それしかない。

 

自由には責任を伴うのではなくて、むしろ逆に、責任を引き受ける覚悟をした瞬間に人は自由になるのだと思う。ルールから逃げるのではなく、それを破る瞬間に、人は自由になる。反抗こそが自由である。自分はフィールドワーク、あるいは仕事の責任、あるいは、自分自身の人生の責任を負う覚悟はあるのだろうか?あるいは、他人から押し付けられた仕事、他人から押し付けられた人生だと思い、決定論的な世界のなかにとどまるのだろうか?まだ、答えは出せていない。