午後の雨 / Rain in the Afternoon

らくがき未満 / less than sketches

コロナ禍の終わり

コロナ禍になってから、2年以上が経った。日本ではすっかり、COVID-19との共存するというかたちで、日常生活を取り戻した。2020年に家に閉じ込められ、精神に変調をきたしていたが、わたしもすっかり回復した。

 

終わりつつあるのは、コロナ禍だけではない。わたしのなかで、ひとつの物語が終わろうとしているのを感じる。それは、今の博士課程であり、カウンセリングでもあるのかもしれない。

 

不満に思っている時期もあったが、今の土地、大学院に来れて本当に良かったと思う。そうでなければ、最愛の恋人に会うことはなかったのだから。自分が精神的な困難に陥ったときに、ユング派の先生に出会ったのも、幸運だったと思う(わたしの周りでは、せっかくカウンセリングに行っても初回で中断してしまう話ばかり聞いていたので)。

 

はじめてカウンセリングルームに行ったときには、わたしは臨床心理士を目指している学生であった恋人とふざけてやっていたスクイグル法というアートセラピーの方法で、ぐるぐる書いた線を解釈するどころか、枠をぶち壊して全部青色に塗りつぶしてしまうような状態だった。行き場のない感情の対応に、自分自身が苦慮していたのだと思う。

 

わたしは、枠をぶち壊したくて仕方がなかったが(それゆえに「社会」を恨んでいた)、一方で、枠がないと生きていけないことも深く知っていた。既存の認知の枠をぶち壊して、新しい地平で枠を再構築すること。今から思えば、それがわたしのやりたかったことであった。そして、絡まった糸をほぐして、問題に自分自身で立ち向かっていける状態に恢復することが、わたしが(無意識に)望んでいたことであった。

 

自分は今、10年ぶりに小説を書いているが、それを通して、徐々に生きる力を恢復してきているように思う。書いているうちに、小説の主題が見えて来た。それは、ルサンチマンの克服であり、悪を受け入れることである。

 

他人のせいにしているうちは、前に進めない。このことを身体で理解するために、ずいぶん時間がかかったように思う。それに気づかせてくれたのは、恋人だった。「わたしに寄りかからないで」と言われた当初、自分は被害者意識を感じた。しかし、恋人が、自分と一緒にいたいからこそ、大切な関係を賭けてそう言ってくれていると理解してから、わたしは目が覚めた。このままではいけない。自分の態度のせいで、大切なものを失ってしまう、と。その数日後、リッツカールトンで30歳の誕生日を迎え、ワイングラスを傾けながら、他でもないわたし自身が、恋人を愛すことが大切なのだと思った。今までは愛されることばかり願っていた自分が、愛すことを決意するという、コペルニクス的転回であった。大切な存在がある、というのは、わたしにとって、願ってもない幸福であった。